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NYグラウンドゼロだけではない「911慰霊碑」 建築家・曽野正之が込めた思い【911から20周年】

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
NYスタテン島の911慰霊碑、ポストカーズ。 (c) Kasumi Abe

911テロがアメリカで発生して今年で20年。

亡くなった犠牲者を悼み、悲劇を後世に語り継ぐため、ニューヨークにはいくつか911慰霊碑が建てられている。前回紹介したマンハッタンのグラウンドゼロがあまりにも有名だが、市内にはほかにもあるのはご存知だろうか?

マンハッタン南端からフェリーで25分、スタテンアイランド(以下スタテン島)の北端にある慰霊碑、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)。ここには、スタテン島に住みこのテロで犠牲となった人々が弔われている。

日本人の建築家、曽野正之さんによる作品で、2004年に完成した。

The Staten Island September 11 Memorial(ポストカーズ)(c) Kasumi Abe
The Staten Island September 11 Memorial(ポストカーズ)(c) Kasumi Abe

ポストカードの両側を折ってひし形にし、羽のように見立てたもので、真っ白で曲線を帯びたシンメトリーが力強くも美しい。

羽の間から見える視界は、ニューヨーク湾を越え、ツインタワーがかつてあったグラウンドゼロへと続く。

曽野さんはどのような経緯でこのプロジェクトに参加することになったのか、またどんな思いで完成させたのだろうか。曽野さんに話を聞いた。

2つの羽の大きさは、ポストカードのサイズを263人分(263倍)に拡大したもの。(c) Kasumi Abe
2つの羽の大きさは、ポストカードのサイズを263人分(263倍)に拡大したもの。(c) Kasumi Abe

2001年の同時多発テロとその後のアフガニスタン紛争の開始を経て、アメリカがイラク戦争へ向かっていたころ、ニューヨークの設計事務所でアソシエイトとして働いていた曽野さんもデモに参加し、反戦を訴えた。しかしその甲斐もなく、アメリカはイラクでの空爆を開始した。

「911の出来事で吐き気がするほどショックを受け、無力感に襲われて創作意欲を失った」。曽野さんは自身の作品、ポストカーズを見つめながら、当時の記憶を手繰り寄せる。

曽野さんは気分が塞ぎがちになりながらも、倒壊跡地で同僚らと復旧作業に参加した。そんな中、スタテン島の犠牲者のために慰霊碑を作ろうという区のプロジェクトが持ち上がり、曽野さんの仲間内でも話題になった。03年の初めのことだ。

グラウンドゼロなど911の復興計画は通常、指名コンペとなっており、世界的な超大御所建築家しか応募ができない。しかしスタテン島慰霊碑は、初めて一般公募から広く作品を募った。曽野さんも迷わず応募した。

昼間は設計事務所で働き、夜間自宅に戻り寝る間も惜しんで制作に取り組んだ。

まずは重要なコンセプトについて考えあぐねる中、このように想像してみた。

「もし自分が亡くなった方の家族や友人だったら...」

曽野さんは、暗い部屋の中で延々に問い続けた。「これはとても恐ろしく辛いプロセスだった」。しかし、そこから「犠牲者への手紙」「ポストカードの羽」というコンセプトが湧いてきた。

次の課題は「一番大切な犠牲者、個人個人をどう表現するか」ということだ。犠牲者が実際に存在していた人として、慰霊碑を訪れた人が一人一人を感じられるようにするには…?

締め切り間際のある日、曽野さんは友人の家に寄ることがあった。そこで、横顔の構図が元々好きな曽野さんが以前撮影したある写真の話になった。それを改めて見て「真正面の写真は辛いから横顔くらいがちょうどいい」と思い、犠牲者の横顔のシルエットの彫刻を思いついたという。そうして設計案がついに完成した。

コンペには多数の国から総数200案ほどの応募があったが、曽野さん案は見事にその中から選ばれたのだった。

曽野正之さん。(c) Kasumi Abe
曽野正之さん。(c) Kasumi Abe

プロジェクトがスタートし、曽野さんは遺族とコミュニケーションを取り、犠牲者の写真を見せてもらいながら、遺族と共に横顔を一つ一つ作り上げていった。

「横顔の写真って普段撮らないから、どうしても結婚式での誓いのキスの写真などになる。遺族の方々に人生でもっとも幸せだった瞬間を思い出させることになりとても辛かった。ただそうして一緒に作ることで意味のあるプロセスとなり、慰霊碑が遺族の方々にとっても彼らの一部になってほしいと思いました」と曽野さんは振り返る。

羽の内側に刻まれた263人の中で、1つだけ何も掘られていないものがある。「アルバムを開いて写真を選ぶのが辛い」と断られたからだ。作る過程で泣き出す人もいた。それだけ残された家族には、悲痛な事件だった。

完成以来、多くの人々がこの慰霊碑を訪れている。毎年9月11日には区主催の記念式典がここで行われており、曽野さんも欠かさず参加し犠牲者を弔っている。

一つ一つ形が異なる犠牲者の横顔。皆、あの日までそれぞれの人生を歩んでいた。(c) Kasumi Abe
一つ一つ形が異なる犠牲者の横顔。皆、あの日までそれぞれの人生を歩んでいた。(c) Kasumi Abe

911はまだ続いている

ポストカーズのすぐ近くの湾沿いには、別の911慰霊碑、The Staten Island September 11 First Responders Memorial(911緊急救助隊慰霊碑)も14年から設置されている。

テロ後、倒壊跡地で救助活動や復興活動をした消防士や作業員が、瓦礫に含まれていた有害物質による健康被害で亡くなっており、石板には同区の被害者107人の名が刻まれている。こちらの設計も曽野さんによるものだ。

湾の色に合わせた石板。ここに刻まれた犠牲者の名前は毎年十数人ずつ増えており、現在は107人。(c) Kasumi Abe
湾の色に合わせた石板。ここに刻まれた犠牲者の名前は毎年十数人ずつ増えており、現在は107人。(c) Kasumi Abe

その石板は「大きな見えないリングの一部」なのだと曽野さんは説明する。

復興現場から出た瓦礫の総量180万トンを集めると、直径150メートルほどの球体になるそうだ。それをイメージし、一部が湾沿いの柵に設置された石板として現れ、見えるようにした。同区の処理場に埋め立てられた瓦礫や、消防士や作業員が粉骨砕身で立ち向かった壮絶な救出・復興作業など、「もはや見えなくなってしまったものが見えるように」という思いを込めた。

17年よりここに名前が刻まれ始めて4年経つが、今も毎年十数人ずつ名前が足されている。

「あのテロから20年が経ち、完全に過去のものとされていますが、今でもまだ終わっていないんです。この悲劇から学んだことを平和な未来への教訓にするため、何が起こったのかを特に若い世代に伝えることは、当地であの日を目撃した我々の責任だと思っています」

曽野正之(Masayuki Sono)

建築家 / クラウズ・アオ共同創業者

幼少期を米ニュージャージーで過ごす。神戸大学と交換留学先のワシントン大学で建築学を学び、1998年ニューヨークに移住。2004年自身の作品、The Staten Island September 11 Memorialが完成。10年に設計事務所、Clouds Architecture Officeを共同設立。現在は宇宙飛行士が火星に滞在するための氷の基地をNASAと共同設計するプロジェクトにも参加中。

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  • 幼少期からツインタワーには馴染みがあった曽野さん。次回は子どものころに訪れたツインタワーの思い出や、2001年9月11日のことを振り返ってもらいます。

2021年9月11日の慰霊碑前の記念式典

慰霊碑「ポストカーズ」では毎年9月11日の夕暮れから、記念式典が行われている。

2021年9月11日、6pm - 7:30 pm

Staten Island 9/11 Memorial Ceremony at Postcards Memorial

Bank St, Staten Island, NY 10301

(Interview, Text and photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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