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娘に捧げた人生、映画化される生涯...名選手を育てたパパ&ママ(後編)

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THE TENNIS DAILY

多くのスポーツでそうであるように、テニス界でも子供の頃に親から指導されて才能を開花させた選手は多い。子供たちにテニスを教え、素晴らしいチャンピオンを育てた両親を見てみよう。 【動画】父とウィンブルドン優勝を祝うシャラポワ ■娘の才能に人生を捧げた父――マリア・シャラポワと父 スラリとした長身で金髪碧眼、その美しい容姿から「ロシアの妖精」と呼ばれたマリア・シャラポワ(ロシア)は、ロシア北部の小さな町ニャガンで生まれた。両親は元々ベラルーシのゴメリという町に住んでいたのだが、シャラポワが生まれる1年前に近郊のチェルノブイリで原発事故が起こったため、母の両親が住む町へ移住したのだ。だがそこはシャラポワの父ユーリさんには寒すぎて、シャラポワが2歳の頃に一家は暖かいリゾート地であるソチに引っ越した。 ユーリさんは自分が地元のテニスコートでプレーする時に娘も連れて行って、そこでシャラポワは4歳の時に自然とテニスを始めた。子供たちを教えていたコーチはシャラポワの才能を見抜き、ユーリさんに言ったそうだ。「お嬢さんは世界一になる可能性がある。あなたは彼女の才能を育てられるかな?それはあなたの人生を捧げるという意味になるんだ」 ユーリさんは直感に従い、娘を世界一のテニスプレーヤーにすると決めた。娘と毎朝早朝練習をし、ある時モスクワで優秀な子供を見出すためのテニス・クリニックに参加。そこにはテニスレジェンドの一人、マルチナ・ナブラチロワ(アメリカ)も来ていて、シャラポワを見てその才能を認め、技術を磨くためにアメリカへ行くよう助言した。 当時はロシアからアメリカへ渡るビザを入手することは考えられないほど困難だったのに、ユーリさんは何とか役人を説得、自分と娘のためのビザを手に入れた。だが母のビザは取ることができず、シャラポワがわずか6歳の時に父娘は二人でフロリダへ飛び、後に錦織圭(日本/日清食品)も学んだニック・ボロテリー・アカデミーを訪れる。 二人は英語がまったく話せず、お金もろくに持っておらず、誰の紹介もなかったが、ボロテリー氏もまたシャラポワの才能を認め、シャラポワは特別にアカデミーで練習できることになる。その後も二人はお金もコネもないせいであらゆる辛酸をなめることになるが、天賦の才能と、4歳の頃からいつまででも壁打ちを続けられるような粘り強いタフさ、そしてどんな相手も倒したいという強い気持ちで二人は夢を叶えることになる。 シャラポワがツアー初優勝を遂げたのは2003年の「ジャパン・オープン」、16歳の時だった。その後、32歳で引退するまでにキャリアグランドスラムを含む36回優勝、通算21週1位在位。だがシャラポワがコーチとしての父と離れたのは、彼女がまだわずか20歳の時だった。 シャラポワは2008年の「全豪オープン」で優勝、3つ目のグランドスラムでの栄冠だった。その直後にシャラポワは、父自身がずっと言ってきていた、退屈さやルーティンから逃れるために数年おきに新しい人間とチームを組むようにという助言に従い、コーチとしての父との決別を決意。 それを伝えられたユーリさんは怒りや動揺を見せることなく理解してくれ、「おまえももう自分の人生を生きないとな」と言って優美に身を引いたそうだ。自伝の中でシャラポワはそのことを「コーチとしての父の最後のあっぱれな行動」と述べている。 ■ひび割れた市営コートからグランドスラム30個の栄冠――ウイリアムズ姉妹と父 ビーナス・ウイリアムズ(アメリカ)とセレナ・ウイリアムズ(アメリカ)を将来のチャンピオンにするための78ページに及ぶ「計画書」を父リチャードさんが書き上げたのは、姉妹がまだ3・4歳の頃だった。 リチャードさん自身はテニスの経験はなかったので、テニス指導書を読み漁って知識を身につけた。ひび割れ雑草の生えた市営コートには、テニスになどまったく興味のない地元のチンピラがたむろしていて、リチャードさんは時には殴り合いをして彼らを追い出し、娘たちに練習をさせた。 若手選手たちがまさに鎬を削るジュニアサーキットは、十代の娘たちには厳しすぎる環境だとリチャードさんは判断。それでウイリアムズ姉妹はジュニアの大会にはほとんど出場することなく、プロデビューした時にはランキングもなかった。 だが1997年、姉妹はテニス界に旋風を巻き起こす。この年16歳のセレナは、初めてWTAツアー大会本戦出場を果たし、シカゴで当時世界7位のメアリー・ピアス(フランス)と世界4位のモニカ・セレス(アメリカ)を破って準決勝に進出、世界5位だったリンゼイ・ダベンポート(アメリカ)に敗退。ランキングは304位から102位にジャンプアップし、年末には99位と早くもトップ100入りを果たした。 そしてビーナスは、初出場だった「全米オープン」で決勝に進出。当時17歳のビーナスと16歳のマルチナ・ヒンギス(スイス)との決勝は、オープン化以降のグランドスラムで最年少の対戦だった。この年の4月に初めてトップ100入りしたビーナスは、22位で1年を終えた。 その後は誰もが知っているように、二人は皆が恐れる素晴らしいチャンピオンになった。ビーナスは2000年の「ウィンブルドン」での初優勝を含めてグランドスラムで7度優勝、シングルスでの優勝は通算49回、セレナと組んだダブルスでも22回優勝。2002年2月に世界1位になっている。そしてセレナは1999年「全米オープン」でグランドスラム初優勝。グランドスラムでの通算優勝数は23回と、マーガレット・コート(オーストラリア)の持つ史上最多記録にあと1と迫っている。シングルスでの通算優勝は73回。 リチャードさんはビーナスが10歳の頃から「ビーナスはいつか世界1位になる。でもセレナはビーナスよりさらにすごい選手になる」と予言。当時そんな「大口」は批判や嘲笑を浴びたが、彼は正しかった。リチャードさんは2017年に二人を育てたコーチとしての功績により、アフリカ系アメリカ人のテニス協会であるAmerican Tennis Associationの名誉殿堂入りしている。 そんなリチャードさんは2014年に自伝を出版。自身の言葉によれば、自分や家族について何冊か本を書いたが、出版する気はなかった。この本が出版に至った唯一の理由は「セレナが“どれでもいいから出版して”とやいやい言い続けた」からだそうだ。 そしてその自伝は、ウィル・スミスの主演で映画化が決まっている。リチャードさんの波乱万丈の人生がどんな映画になるのか、楽しみだ。 (テニスデイリー編集部) ※写真は2012年「ウィンブルドン」でのセレナ(右)と父、姉ビーナス (左) (Photo by Julian Finney/Getty Images)

(c)テニスデイリー

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