“母親の再婚相手”から虐待されて「殺してやろう」と復讐を決意…4歳から壮絶な虐待家庭で育った男性(31)が、それでも義父との再会後に“許した”ワケ
消費者金融に借金、次第にうつ症状も
――養護施設出身者の方が、退所後に同じような問題に直面することも多いのでしょうか。 ブローハン 多いと思います。そもそも就職先の選択肢が少なくて、もしも辞めざるを得ない状況になれば、収入源も住む場所も同時に失いますから、リスクがものすごく大きい側面があって。大人でも失敗をすることがあるのに、18歳の子どもにとって失敗ができない状況に突然立たされるって、すごく厳しいと思います。 僕自身、働きながら看護学校に通う日々で、フィリピンにいるお母さんの家族たちに仕送りをしていたこともあり、体力的にも経済的にも窮地に立たされてしまいました。だんだん生活が回らなくなり、消費者金融に借金をしたりして家族に迷惑をかけないようにしていたんですが、次第にうつ病っぽくなってしまって。
――当時、心身はどういう状態になったのですか。 ブローハン ゲームに依存してしまって、タブレットやスマートフォンに入れたアプリを複数個同時にプレイする、というのを24時間。それくらい没頭して、現実からの逃げ口としてゲームをしていましたね。 当時は食費すらあまり捻出できず、100円の鯖缶を白ご飯に乗せて食べる生活を続けていたせいで、今より20キロくらい痩せていました。その時期は、心身ともに結構苦しかったです。
「フィリピンにあるお母さんのお墓に行った」心身ともに苦しい状態から脱することができたワケ
――その状況から脱することができたきっかけはありましたか。 ブローハン お母さんが亡くなって10年の節目に、フィリピンにあるお母さんのお墓に行ったのが大きかったと思います。現地に着くと、お母さんのきょうだいや家族が大歓迎してくれて。会いに行くことは14歳のときから決めていたので、大きな目標が達成できたこと、そして夢のように楽しい2週間を過ごしたことで、日本に帰ってからも心機一転、頑張れると思いました。 ――ブローハンさんは今、社会的養護の必要な方々を支援する活動に携わられていますが、当事者支援活動を始めたのはなぜですか。 ブローハン フィリピンから戻ったあと、僕は携帯ショップで働いていたのですが、当時、知人を通して知り合ったのが、児童養護施設や里親家庭で育った若者の声を社会に届けるプロジェクト「OUR VOICE OUR TURN JAPAN~僕らの声を届けよう~」という活動の創立者・菊池真梨香さんです。菊池さんは養護施設の元職員の方で、僕と知り合ったときはまだそのプロジェクトを立ち上げる前でした。 若者たちのためにどのような活動を展開していくかを考え続ける菊池さんの姿を見て、僕も応援したいと思いましたし、どんなことなら手伝えるのか、考えるようになりました。携帯ショップで働きながらだとなかなかお手伝いができなかったため、仕事を辞めて、それから菊池さんの活動を手伝うようになったのがはじまりです。
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