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甲子園にモスラ…朝ドラ『エール』古関裕而は天才すぎる作曲家

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SmartFLASH

 3月30日に始まった朝ドラ『エール』が描くのは、昭和の日本を勇気づけた作曲家・古関裕而と、その妻・金子の物語。モデルとなった2人の恋と、音楽の魅力に迫る。 【写真】新婚時代の裕而と金子  裕而(本名・勇治)は111年前、1909年に福島県福島市で生まれ、小学生のころから作曲を始めた。音楽教育は受けていない。作曲の際は楽器を使わず、頭の中で浮かんだメロディを、すらすらと楽譜に書き留めた。裕而の長男・古関正裕氏(73)は、こう語る。 「それでオーケストラのスコアも書いていました。自分の親ながら、天才だったんでしょうね」  正裕氏は『亜麻色の髪の乙女』で知られる「ヴィレッジ・シンガーズ」の初期メンバー。流行の最先端、グループサウンズの一員だった正裕氏に、裕而の楽曲はどう映ったのか。 「自分でレコードをかけて聴いた父の曲は、1964年の東京五輪の入場行進曲『オリンピック・マーチ』でした。いい曲だとは思いましたが、自分たちが演奏するような曲ではありませんでした(笑)。  進学した早稲田大学では、父が作曲した応援歌『紺碧の空』も歌いましたが、当時は特別な思いはなかったですね」  そんな正裕氏が、父・裕而の足跡を追いはじめたのは、2009年の生誕100周年がきっかけだった。 「家にある資料を調べているうち、父と母(金子)が文通していた手紙の束が無造作に入れられた、紙袋を見つけたんです。父と喧嘩して、母は自分が持っていたものを燃やしてしまったので、残っていたのは、たぶん半分ほど。 『自分が生きている間は読むな』という、父の一筆がありました。時系列で整理して読んでいくと、2人とも、手紙の内容は赤面するほど熱烈でした(笑)」  福島市に住む裕而と、愛知県豊橋市に住む金子の文通が始まったのは、1930年1月だ。裕而の舞踏組曲『竹取物語』など5曲が、イギリスの作曲コンクールで入賞。その新聞記事を金子が読み、ファンレターを送った。  3カ月間、濃密な手紙を交わし、2人は恋愛関係になる。裕而は豊橋を訪ね、金子を福島に連れ帰り、6月に結婚した。裕而は20歳、金子は18歳だった。

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