江戸時代の非常食に奨励された「葛粉」 奈良県宇陀市で450年続く伝統の製造法
近世の薬草園経営と地域に広まった薬種事業
森野吉野葛本舗の裏山には、同本舗が管理する森野旧薬園という国史跡の薬草園があり、公開されている。また、江戸時代後期の宇陀松山には50軒を超える薬種問屋が建ち並び、「薬の町」としての地域の過去も伝えられる。その背景にあった森野家と薬草園の歴史についても述べておきたい。 推古天皇19年(611)5月、「兎田野(うだの)に薬猟(くすりがり)す」という、薬猟についての最古の記録が『日本書紀』に残る。兎田野とは大宇陀の野であり、薬猟とは、薬効がある鹿の角をとる猟のことで、このとき女性たちは薬草を摘んだという。古代より大宇陀は薬とかかわりが深い地であった。 風邪の生薬「葛根湯」で知られるように、葛の根は漢方で使われる薬草でもある。そうしたことの影響もあったのであろうか、森野吉野葛本舗の11代当主、森野通貞(みちさだ)は薬草木を愛好し、本業のかたわらこれを屋敷内で栽培して研究に勤しんだ。 おりしも将軍・徳川吉宗の時代。幕政の刷新「享保の改革」を進めた吉宗は、その一環として、輸入に頼っていた漢方薬の素材である薬草の、国内での生産に取り組む。東京の小石川植物園の前身、御薬園の開設はよく知られている。吉宗はまた、薬草を収集するために「採薬使」を立てて全国への派遣を実施した。 そして、大和の地にも、筆頭の採薬使であった植村左平次政勝が入ることになった。その際に宇陀松山から道案内役が出され、その一人として薬草に詳しい通貞が選ばれて、左平次とともに採薬の旅に出たのである。 享保14年(1729)4月から7月に及んだこの採薬行は、室生から吉野の山地、さらに奥地の山上ヶ岳などを経て十津川、高野山、金剛山、初瀬から名張に至ったもので、幾多の難所と悪天候、さらには蛭の被害や、食糧と宿所の手配にも難儀するものであったことが左平次の日誌に記されている。 しかし、旅の成果は大きかったと見え、同行した大和の者のなかには御家人に取り立てられた者もあった。通貞はこれを辞退したが、褒賞として朝鮮人参などの貴重な薬草木を下付され、これを自宅の裏山を切り拓き育成した。これが現在、森野旧薬園として伝わる薬草園の始まりであるという。 左平次と通貞は、薬草とその知識を通して主従を越えた関係を結び、以降も3度の採薬の旅をともにし、初回の旅から足掛け20余年、30余国に足跡を残すこととなった。この功績により、通貞は苗字帯刀を許され、多くの学者たちとの交流を深める機会を持った。そして、その好学の意志は薬草園とともに子孫へと受け継がれた。 森野家でも一時期、葛粉より薬種の商いが多かったというが、のちに宇陀松山に多くの薬種問屋が生まれた背景として、森野通貞と薬草園の存在は大きなものであったことだろう。 かつて薬問屋だった商家の一つが、歴史文化館「薬の館」として公開されているが、そこでは現在の著名薬品企業の創業者となった、幾人ものこの町の出身者が紹介されていて驚かされる。近代に入ってこの地での産業として使命を終えながらも、森野旧薬園として伝えられてきた意味がここにある。 薬草園の開設以来、森野家では薬草の一つでもあるカタクリを大量に栽培して片栗粉を製造し、幕府へ納付していたという。現在はもうその製造はしていないが、3月の終わりから4月にかけて、森野旧薬園ではカタクリの花が咲き誇る。 大宇陀の野にあって、後藤又兵衛とのゆかりで知られる「又兵衛桜」の見ごろの時期とも重なり、あわせて訪れる人が多いという。そこに加えて「葛の館」で本葛の味覚を学び、地域の歴史を感じるのもよさそうである。
兼田由紀夫(フリー編集者)