江戸時代の非常食に奨励された「葛粉」 奈良県宇陀市で450年続く伝統の製造法
繊細な風味を育む、冬の厳寒と清らかな水
宇陀松山の旧街道沿いに建つ町家の一つが、森野吉野葛本舗である。およそ450年前の永禄年間(1558~1570)、吉野郡の下市(しもいち)で、初代が起業したといい、元和2年(1616)に宇陀松山に移転してきたと当家の記録に残る。以来、絶えることなく、この地で葛粉の製造を営んできた。 マメ科のつる性植物である葛は、可憐な花が古来より人々に親しまれ、秋の七草にも数えられる身近な植物である。繁殖力は旺盛で、日本中の山野に自生するが、ことに吉野の地とは縁が深く、吉野町内の国栖(くず)を呼び名の起源とする説がある。この地が古くからの葛粉の産地であったのが、その理由とされる。 葛の根を掘り出すことを生業(なりわい)とする人を「掘子(ほりこ)」といい、50年ほど前までの吉野山近辺には、農閑期に山に入る農業兼業の掘子も多かった。もっとも近年は、そうした人たちも少なくなり、森野吉野葛本舗でも九州の鹿児島・宮崎などを主な原料の入手先としている。 むしろ、「吉野葛」が高品質の葛粉の別名として引き継がれる理由は、「吉野晒(さら)し」と呼ばれる伝統の製造工程にある。山から掘り出した葛の根を繊維状に粉砕し、澱粉を絞り出すが、この段階では泥や灰汁(あく)などの不純物を含む茶色く粗雑なものであり、これを水洗いしていく。 清水に溶かして機械で攪拌(かくはん)してから沈殿させ、濁ったうわ水を捨て、また新しい水を入れてかき混ぜて沈殿させる。繰り返すこと7回から10回。だんだんとうわ水が澄み、不純物が取り除かれた真っ白い葛粉だけが精製される。 葛粉はきめが細かく、1回の沈殿に2日かかるといい、この晒しの過程だけで2週間から3週間。さらに最終的な乾燥の工程を含むと完成には約2か月を要する。そして、この製造は、腐敗を避けるために冬の厳寒期に限られる。また、晒しに使用する水も重要で、水道水などではよい製品は得られない。 「葛粉は特に風味が繊細なので、風味を変えないという意味でも不純物の少ない柔らかい水が必要です。宇陀にはそういう地下水が昔と変わらずあり、その恩恵は今でも大きい」と、森野吉野葛本舗の20代目当主、代表取締役の森野藤助さんはいう。葛の晒しに適した高地の寒冷な気候と、豊富な地下水が得られる場所、それが宇陀松山だったのである。 「この地に住んで、古い地域の歴史の大切さを外の人から聞くと、同じことを続けていくことの価値を意識して、大事にしていきたいと改めて思います。葛粉を納めている和菓子屋さんのなかには、創業から500年にもなる老舗があり、そこでは季節ごとに決まった和菓子を店頭に並べるということを続けられておられます。そういうところのお菓子の素材の1つとして、貢献していけるようにしなければならないなと感じます」 長い生産の時を経て、一つの製品が歴史文化となることを教えてくれる言葉である。ただ、今という時代に存在をアピールするうえでの難しさもある。 「葛粉は粉のままだと長期間の保存が可能で、飢饉などに備えて各家で製造していたようです。江戸時代にはそれが奨励されてもいました。ただ、一旦、熱を加えて調理すると、劣化が早い。短時間で、もっちりした食感が失われて、ポツポツと切れるようになり、白く濁ってきます。砂糖などを加えて調理すると1日ほどはもつこともありますが、それでもおいしくいただくには鮮度が大切です」 現在の日持ちのする和菓子では、葛粉に代えてタピオカなどの澱粉が使われ、食感は似て非なるもので、葛粉の味わいは忘れられつつあるのである。 森野吉野葛本舗では、22年前に近くの国道沿いに新たな工場を設けるにあたって、葛切りや葛餅などを提供する店舗「葛の館」を併設した。本葛を使った作り立てのおいしさを少しでも広めたいという思いからである。 「お店だけでは成り立たないところですが、初めて来られた方から、こんなにおいしいものなのですねと感想をいただくこともあります。繰り返し来ていただいている方もおられ、お店を設けてよかったと思っています」