“歌怪獣”島津亜矢、ド演歌から「変化球」で35周年 恩師・星野哲郎さんから金言
カバーソングで人気に火が付いた演歌歌手・島津亜矢(50)が先月28日、50歳の誕生日にカバーアルバム「SINGER7」を発売した。15歳で歌手デビューした天才少女は、ヒット曲に恵まれず「自分に自信がなかった」と振り返る。どん底からはい上がり、今年で35周年。天性の歌声の誕生秘話、「今が演歌歌手として一番幸せ」という山あり谷ありの音楽人生に迫った。(水野佑紀) タレント・マキタスポーツ(51)に命名された異名「歌怪獣」。「怒られるんじゃないか?」と内心ひやひやしていたマキタをよそに、島津は「最高の褒め言葉ですよね」。大きな口を開け、豪快に笑った。 規格外の歌唱力と豊かな表現力で性別、年齢、ジャンルを問わず歌いこなす。ライフワークとなったカバーアルバムの第7弾「SINGER7」に収録されているGReeeeN「キセキ」で、ラップにも挑戦した。 「できあがったのを22歳の甥(おい)っ子に聴かせたら『ラップは言葉じゃなくてリズム重視!』と言われました。甥っ子にLINEで音声を吹き込んでもらって、それを聴いて録(と)り直しました」。カバーだろうと、妥協は一切しない。 近年はテレビ番組でカバー曲を披露する機会も増えた。「コンサートに30~40代の夫婦がよく来てくれるようになった」と、幅広い世代の胸に響いていることを実感。演歌歌手のカバーでよくある独特の強い癖もなく、耳なじみがいいのも人気の理由の一つだろう。 「演歌の節は独特でカバーを歌っても出てしまう流れはありますが、私はあえて入れようとも入れないとも考えていない。譜面が読めないのでご本人の歌を聴いて覚えるので耳に残っていますが、なるべくマネにならないように。どこかに私の色を残せたらいいなって心に置いて歌っています」 生まれながらの歌手だ。母・久美子さんは「おなかの子は男の子だろう」と聞いていた。胎教に演歌を聴いてすくすく育ち、誕生直後の「オギャー」という声も力強かった。が、医師から「女の子です」と連れてこられ、驚いた久美子さん。「泣き声が太いから演歌を歌える」と直感したという。 5歳からのど自慢大会に出場、6歳にして100本を超える優勝を誇った。当時から「根っからの負けず嫌い」だという。「のど自慢で負けてしまったら、どこが悪かったのか審査員の人に聞いたりしてました。一度『(優勝した)あの子は年齢制限で今年までしか出られないから』って言われたんですよ。それが解せなくて、泣きました」 家でも歌の練習を重ねた。「中途半端な気持ちはいけない」という久美子さんの教えで、初めて聴いた曲を15分以内に覚えないとトイレや押し入れに閉じ込められたことも。「人間って不思議で恐怖心から覚えられるんですよ。だから、今でも歌詞を覚えるのは早い方」 努力のかいあって、小学4年生の時には、地元・熊本のテレビ番組で彼女の本名をタイトルにしたコーナーを持った。13歳でスカウトされ、15歳でデビュー。とんとん拍子だが2年後、事務所の移籍トラブルが起き、歌えない期間が訪れた。 「母は『一人前になるまで敷居をまたがないと思っていてね』と言っていましたが、歌えない状況になり、父から『近くで亜矢子(=島津の本名)を守ってほしい』と言われ、上京してくれました。父は仕送りをしてくれましたが、親には本当に迷惑をかけましたね」と声を落とした。 思うように活動できない島津を所属するレコード会社「テイチクエンタテインメント」も支えた。 「『いくら若くても声は衰えるから』と、ボイストレーニングだけは通わせてくれました。事務所をやめたらお給料もないので、多重音声カラオケのアルバイトをやらせてくれた。先輩たちの新曲が出ると、覚えて吹き込んでましたね。テイチク主催の全国で行われるカラオケ大会にも行ってました」 それでも生活は困窮。まともに活動することもできず「歌手として歌うことができるのかなっていう不安が大きくて、それが一番つらかった」。 1991年、事務所を移籍し「愛染かつらをもう一度」を発表した。再起の一曲は、島津にとって初の女歌で、親子の絆を歌った柔らかい楽曲。「ド演歌が自分の本領を発揮できる。これからまた勝負するのにこれでいいのかな」。モヤモヤした気持ちを恩師で作詞家の故・星野哲郎さんにぶつけると「直球しか投げられないピッチャーより、変化球も投げられる方が長く生きられる」と指摘され「スッと心に入ってきた」。 同曲で久しぶりのレコーディングを行った。見慣れた顔触れの演奏家たちに「久しぶりだね。すっごくいい曲だから頑張りなよ」と温かく迎えられ「そこで自信がつきました」と島津。同曲は30万枚を突破するロングヒットを記録した。 2001年、毎年目標に掲げていたNHK紅白歌合戦に初出場した。芸歴15年、30歳の時だ。夢舞台に「山で遭難したら眠くなるっていうように、緊張が頂点に達したときは眠くなるんですね。机に伏して寝るぐらいじゃ足りない。楽屋の冷たい床にシートを敷いて、バタンと」。本番1時間前、緊張が体に異変をもたらすほどだった。 極限状態で迎えたオープニング。夢見ていた大みそかのNHKホールのステージに立った。真横にいた同じレコード会社の先輩・天童よしみ(66)が、ぎゅっと手を握ってきた。「亜矢、よく頑張ったな。これが紅白やで」。下積み時代から面倒を見てくれた先輩の心遣いが「一番うれしかったですね」と島津。20年がたった今でも思い出すとポロポロと涙が落ち、言葉が詰まった。 15年から5年連続紅白歌合戦に出場。「歌怪獣」の愛称とともに、抜群の歌唱力が世に浸透していった。最大の武器である喉を維持するために毎日呼吸器をつけ、頻繁に病院で声帯をチェック。本人は「当たり前のこと」と振り返るが、コロナ禍で病院に気軽に行けなくなり、ケア方法も変化したという。 「『THIS IS ME』(『SINGER7』収録曲)を練習していた時にすごく高いキーが叫び声みたいになっていました。コロナのこともあったので、ボイストレーニングをリモートで何度もやるうちに声が出るようになって、自信がつきましたね。衰えているところは実感していましたが、怖がらずに声が出せる。今はあんまり喉に対して神経質にならないようにしています」 いい意味で肩の力が抜けた。そんな今だからこそ、星野さんの「変化球も投げられる方が長く生きられる」という言葉もより染みる。 「今の方が先生の愛情だなって思いますね。どちらかといえば、演歌歌手はこうあるべきだと狭いものが自分の中でありました。それが35年かけてよろいが脱げて、周りの景色が見えるようになって、大きく息を吸える。演歌や他のジャンルの歌とか垣根を越えて、楽しいと思える歌を声が続く限り歌っていきたい」 ◆島津亜矢(しまづ・あや)本名・島津亜矢子。1971年3月28日、熊本県生まれ。50歳。5歳の時からのど自慢番組に数多く出場。84年テイチクにスカウトされ、作詞家・星野哲郎氏に弟子入り。86年、「袴をはいた渡り鳥」でデビュー。2001年、NHK紅白歌合戦に初出場し、これまでに6回出場。代表曲は「帰らんちゃよか」「感謝状~母へのメッセージ~」など。 ◆地震から5年故郷熊本底力 熊本県鹿本郡植木町出身の島津。14日に故郷・熊本を中心に甚大な被害が起こった熊本地震から5年を迎える。 「私が小さい頃、熊本は地震が全然なかったので、まさかあんなに大きな地震が来るとはと。立ち直って、でもまた水害(令和2年7月豪雨)があったりしましたよね。こんなことが続いて…と思いましたが、そこでもまた立ち上がった。やっぱり熊本には底力がある」と語る。「コロナが落ち着いたら私も熊本の空気をいっぱい吸いたいですし、みなさんにコンサートで楽しんでもらえるよう精進したいと思います」と意気込んだ。
報知新聞社