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空母「瑞鳳」の甲板下の部屋。3人椅子に座って待機中、真ん中の乗組員が突然後方に崩れ落ちた。遺体の仮置き場まで背負って運んだ。そこは地獄絵図だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

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南日本新聞

 1942(昭和17)年、海軍佐世保海兵団に入った。海軍対潜学校(神奈川)で1年間、潜水艦探知を学んだ後、航空母艦(空母)「瑞鳳(ずいほう)」乗り組みを命じられ、44年10月、大分・別府湾を出撃した。19歳。初の戦場行きだったが、死への不安や恐れは無かった。いざとなれば神風が吹くと信じていた。  瑞鳳は同じ空母である「瑞鶴」「千代田」「千歳」と第三航空戦隊を編成。フィリピンを目指し南下を続けたが、千人近い乗組員の中でも下っ端の私には、どこに向かっているかもよく分からなかった(注・戦隊は、「大和」「武蔵」を中核とする主力艦隊のフィリピン・レイテ湾突入援護のため、米機動部隊をフィリピン北方海上に引きつけるおとり役を務めていた)。  別府湾出航の数日後、艦内放送で「米軍との決戦に備え、身の回りを整理するように」との指示が流れた。覚悟した。心の支えに、お守りである千人針を腹部に巻いた。  その決戦当日(注・10月25日のエンガノ岬沖海戦)、早朝から艦載機が一機残らず飛び立った。すぐに米軍機の攻撃が始まり、私は艦尾の飛行甲板下の部屋で待機した。3人並んで椅子に座っていたが、真ん中にいた乗組員が突然後方に崩れ落ちた。頭から血を流し呼び掛けにも応じない。敵機の機銃掃射の弾が命中したのだろう。

 遺体の仮置き場になっていた風呂場まで、一人で背負って運んだ。そこはまるで血の海で、この世とは思えない地獄絵図だった。  機銃掃射、爆弾、魚雷―。敵機の激しい攻撃は途絶えることなく続いた。魚雷が艦尾に命中し、すさまじい爆音とともに、艦体がはね上がった。  大海原に視線を移すと、もう他の空母3隻の姿は見当たらなかった。瑞鳳も右に傾き、機関が停止。飛行甲板に上がると、ラッパの演奏とともに軍艦旗が降ろされた。軍艦旗と天皇陛下の写真である御真影がボートに移されると、総員退去の命令が出た。  艦腹に下がったロープを伝って海面まで降り、冷たい海水に足が触れた瞬間、初めて恐怖を感じた。沈む艦がつくる渦に巻き込まれないよう、必死に泳いだ。艦首甲板で、乗組員10人ほどが逃げ惑うのが見えた。泳ぎに自信が無い、若い補充兵だったように思う。  運よく、海面に浮かび上がってきた木製の階段につかまることができた。数時間漂流し、敵機の姿が見えなくなってから、味方駆逐艦に救助された。奄美大島に1泊し、佐世保に戻った。しばらくはネズミが動く小さな音にも反応し、恐怖感が拭えなかった。

 農家の四男として生まれた。横川尋常高等小学校を卒業後、15歳で佐世保海軍工廠(こうしょう)の工員になり、佐世保市内の夜間中学に通ったが、卒業できないまま兵隊になった。  私の集落からは40人近くが戦地に向かい、今も生きているのは私だけ。戦争体験者として話をすることができてよかった。平和な世がいつまでも続くことを心から願っている。 ※2016年9月15日付掲載

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