〈静謐と孤高に生きた画家・長谷川潾二郎〉現実と夢の間を行き来する作品の数々、代表作『猫』が見せる自画像
三男、濬(しゅん)はロシア語を学んで満洲へ渡り、満州国国務院などに勤めながら翻訳や著述に活躍した。ロシアの作家、バイコフの『偉大なる王』の翻訳のほか、満州で現地の作家たちとともに文芸運動にかかわり、満州における〈植民地文芸〉の興隆に一役買った。のちに満映(満州映画協会)に勤めて、終戦時に理事長の甘粕正彦の最後に立ち会った人物としても知られる。 四男の四郎も満鉄などに勤めたのち、敗戦でソ連に抑留された。その経験を描いた小説『シベリア物語』で注目され、『鶴』で芥川賞候補となった。ブレヒト、ロルカなどの戯曲や詩作品のほか、アルセーニエフの『デルス・ウザーラ』などの翻訳家であり、詩人にして舞台演出家、はたまたアジア・アフリカ作家会議のメンバーと、まことに多彩な活動を戦後続けた。
ジャーナリストと作家に支えられる
こうした兄弟たちの波乱万丈の歩みに比べてみれば、潾二郎が生きたのはひたすら〈美しいもの〉だけと向き合う平穏で閑暇な日々である。 17歳だった1921年4月14日、函館大火で元町の実家が全焼した折、彼は火が迫る家を飛び出して家族と離れ、スケッチブックを抱えて駆け上った函館山の山腹から、炎に包まれた街を一心不乱に写生していた。 生涯を通じて生活のために働いたことさえ、ほとんど痕跡がない。家族を抱えながらいったいどうやって生計を立ててきたのかが不思議に思えるが、それを可能にしたのは4兄弟が育った長谷川家の家産にくわえて、自由な人のつながりとその周囲で奇想あふれる美を育んだ函館という街の〈空気〉であったろう。 近代日本の最初の開港地の一つだった函館の街は、港を見下ろす広いポプラ並木の石畳に沿って建つハリストス教会やカトリック教会などが異国風の眺めをつくった。外国船が港を出入りし、乗り組んだ外国人船員や水兵にくわえて革命を逃れて亡命した白系ロシア人たちが住み着き、市民たちとまじわった。身近に外国語が行き交う、ほかの都市にない自由な空気は、長谷川家の兄弟たちが国境を越えて活動を広げてゆく下地となったはずである。 潾二郎の周囲にも、日本の風土から抜け出たような才覚をもつ友人たちが集まっていた。 旧制函館中学の同窓で親しく交友した阿部正雄は、のちに「言葉の魔術師」と呼ばれる作家、久生十蘭となり、同じく納谷三千男も雑誌『新青年』の人気作家、水谷準となった。上京後、潾二郎が画業のかたわらで〈小説家・地味井平造〉として推理小説に手を染めたのは、十蘭や下宿をともにした水谷の影響がかかわっていたのだろう。 東京ではまず長兄の海太郎が借りた東中野の〈谷戸の文化村〉に同居した。小林秀雄や田河水泡らも住んだ若い芸術家たちの〈村〉である。その後、父が荻窪に新築したアトリエに末弟の四郎とともに住んだ。 翌年の1931年、27歳の潾二郎はシベリア鉄道経由で渡仏、1年ほど滞在して異郷に絵画を学んだ。この時の下宿探しなどで世話をしたのは、パリに遊学中の久生十蘭だった。 〈晴天でも何処かにちょっと霞がある。光と影、明暗のバランス、絵画的な美が巴里の街を形成している。人工が人為を越えて自然に溶け込んだ街だ〉 フランスに滞在中の手記にこう記した画家は、異なった風土がもたらす光と空気の性質の違いを通して西洋絵画と日本の絵画の落差をたしかめ、その風景や静物に画家自身のまなざしと心象(イマジネーション)を重ねて描き出す、独特の絵画の世界観をつかんだのであろう。