5月に死去したJR東海の葛西敬之氏、社長時代に明かしていた「新幹線食堂車を廃止した理由」 「鉄道なにコレ!?」(第31回)
日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化で中心的な役割を果たした「改革3人組」の1人で、JR東海の社長、会長を歴任した葛西敬之名誉会長が5月25日に81歳で亡くなった。これまで葛西氏から幅広い分野について話を聞く機会があったが、東海道新幹線に関する語り口には特に熱がこもっていた。中でも印象的だったのが社長時代に新幹線の食堂車を廃止した理由を「それはね…」と解説した時だ。(共同通信=大塚圭一郎) 【葛西敬之(かさい・よしゆき)氏】1940年兵庫県生まれで、東京で育つ。東京大学法学部卒業後、1963年4月に国鉄入社。故松田昌士(まつだ・まさたけ)元JR東日本社長、井手正敬(いで・まさたか)元JR西日本社長とともに87年の国鉄分割民営化を主導した「改革3人組」の1人。 JR東海が発足した87年4月、取締役総合企画本部長に就任。95年6月から社長、2004年6月~14年4月に会長をそれぞれ務めた。代表取締役名誉会長、取締役名誉会長を経て、20年6月から名誉会長。JR東海発足から33年余り取締役の座にあった。
安倍晋三元首相と近く、経済界の有力者らでつくる支援組織「四季の会」を主導。第1次安倍内閣時代に教育再生会議の有識者メンバーを務めた。内閣府宇宙政策委員会委員長を12年7月から、国家公安委員を06年2月~11年2月に歴任。次世代のリーダーを養成する全寮制の中高一貫校「海陽学園」(愛知県蒲郡市)の設立にも携わった。 ▽ステーキの価格はかけそば12杯分 東海道・山陽新幹線に食堂車が本格的に登場したのは国鉄時代だった1975年3月の山陽新幹線岡山―博多(福岡市)の延伸時だ。正面の丸い団子鼻が特徴的だった車両「0系」の16両編成のうち8号車に連結し、「ひかり」の多くの列車で営業を始めた。当時は「のぞみ」がなかったため、主要駅間の速達性を重視した「ひかり」は花形だった。 1964年10月1日の東海道新幹線(東京―新大阪)開業時から10年超にわたって食堂車が事実上なかった理由について、葛西氏の前任のJR東海社長だった須田寛氏は雑誌「ウェッジ」の対談で「以前、国鉄の決まりでは、特別急行列車には食堂車を付けることになっていました」としつつ、東京と新大阪の間では「ゆっくりと食事をする時間もないだろうということで、軽食を提供するビュフェにしたわけです」と説明していた。