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大手門から本丸前まで外から眺めるだけで実感する江戸城のスケールと防備──東京にみつける江戸 第15回

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GQ JAPAN

凝った平川門は江戸時代さながらの景観

前々回、遠方に門や櫓を望む江戸時代さながらの光景を楽しんだ巽櫓(たつみ・やぐら)の前から、桔梗堀を左に見ながら北に200メートルほど進むと、大手門がある。「大手」とは城の表口のこと。大手門は文字通り、諸大名の登城口となった江戸城の正門で、10万石以上の譜代大名二人が警護を担当していた。 江戸城の多くの建造物と同様、明暦3(1657)年の大火で焼失したのち、2年後の万治2(1659)年に再建され、高麗門はそのときのものが現存している。櫓門と塀は残念ながら太平洋戦争の空襲で焼失し、昭和41(1966)年に復元された。また、江戸時代は高麗門の前に木橋がかかっていたが、大正時代に堀を埋め、土橋に替えられた。かつての日比谷入り江は、この大手門の南のあたりまで入り込み、近くに平川の河口があったようだ。 大手門をくぐると三の丸で、ここから二の丸をへて本丸に至る。まさに江戸城の中枢である。その区域は21万平方mにおよぶ皇居付属庭園の「東御苑」として整備され、昭和43(1968)年から一般公開されている。だが、入園は後回しにして、今回は大手門の北の大手堀沿いに歩を進めたい。500mほど進むと、木橋が見えてくる。平川門である。 大手門同様、東御苑の出入り口にもなっているこの門は三の丸の正門で、大奥の女中や商人らはこの門から出入りした。高麗門と櫓門が現存するうえ、オリジナルと同様の木橋がかけられ(橋脚はコンクリート)、江戸時代の姿を色濃くとどめる。木橋の擬宝珠(ぎぼし:手すり上の玉ねぎ状の装飾)には慶長19(1614)年と寛永元(1624)年の刻印がある。これらは明治24(1891)年、西の丸大手橋(正門石橋)と西の丸下乗橋(正門鉄橋)をかけ替えた際、ここに移されたものだ。 江戸城は平川門がある方面、つまり北東が防御上の弱点だったので、平川門も凝ったつくりになっている。まず、木橋を渡った正面に高麗門がない。渡ると右折を強いられ、敵は城内にまっすぐ突入できない。また、櫓門に向かって右手は堀(清水堀)の対岸に石垣が見えるが、その石垣が囲むのは、100m余り先の竹橋門まで細長く延びる幅十数メートルの区画(帯曲輪)で、そのすぐ向こうにも広大な平川堀があり、本丸を守っている。それに平川門の北方100m足らずの位置には、以前訪れた外堀の一ツ橋門の石垣がある。本丸を守るために、わずかの距離に三重の堀を構え、防御を固めていたのである。

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