大学競争、早慶戦は慶応の圧勝 なぜ、早稲田は苦境に? 大学ジャーナリスト・石渡嶺司
最新入試データでは慶応に大敗
週刊ダイヤモンドは、「特集 最新 大学評価ランキング」のなかで、「私大の雄・早稲田の落日」というショッキングなタイトルの記事を掲載した(10月18日号)。また、代々木ゼミナールがまとめた「W合格者の入学先対決」データは、入学先判明者のうち、早慶両方に合格した人の入学先の割合を示すものですが、国際教養学部以外、早稲田大が慶応大に敗れています。 ◇データ1:W合格者の入学者対決データ(2014年・代々木ゼミナール調べ) 早稲田大学(左の数字)/慶応義塾大学(右の数字) 政治経済学部44%/経済学部56% 政治経済学部18%/法学部82% 法学部10%/法学部90% 商学部33%/商学部67% 文学部40%/文学部60% 文化構想学部14%/文学部86% 国際教養学部73%/文学部27% 国際教養学部5%/法学部95% 基幹理工学部38%/理工学部62% 創造理工学部29%/理工学部71% 先進理工学部31%/理工学部69% 私大の2トップと言えば、早稲田大と慶応義塾大。昔も今も「早慶」と呼ぶのが一般的で、慶応関係者以外は「慶早」とは言いません。そして、昔から、良くも悪くも早稲田の方が目立つ存在で、志望者も多くいました。そんな早稲田大学は、なぜ「凋落」してしまったのでしょうか。
戦後は早稲田がリード
『早稲田大学百年史』によれば、1935年卒業者の東京・関東出身者の比率は31.8%でした。戦前の早稲田は地方出身者が中心の大学だったのです。戦後、早稲田大の東京・関東出身者の比率は東京の一極集中もあって、50%台から60%台に上昇します。それでも、地方高校生からの人気が低下したか、と言えばそんなことはなく、戦後から1980年代にかけて地方の高校生から早稲田大の人気は高いものがありました。 『早稲田と慶応』(橘木俊詔、講談社現代新書)には、「『野人の早稲田マン』になるために、地方から上京して早稲田に入学するのは自然な夢だったのである。(中略)慶応を目指す学生もいたが、どちらかと言えば慶応はシティ・ボーイが希望するとのイメージがあり、地方ボーイは早稲田に憧れた」とあります。早稲田への憧れもあり、当時は早稲田大の方が慶応大よりも偏差値は上でした。