Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

使うときは使う、天下人・豊臣秀吉の現金給付

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
BEST TIMES

 〈秀吉の金賦〉  六宮智仁王(のちの八条宮智仁親王)・織田信雄・徳川家康に黄金一000両・銀一万両、弟の秀長に黄金三000両・銀二万両、甥の秀次に黄金三000両・銀一万両、 この記事の写真はこちら  天正17年5月20日 西暦1589年7月2日  〈現代の現金給付〉  30万円を住民税非課税世帯・収入半減世帯に  というわけで、今回は豊臣秀吉の場合を見よう。彼の場合は、面白い材料が多くてどれを取り上げようか迷うくらいである。  まずは巷談の類の話ながら、秀吉の出世譚、『太閤記』の中から紹介させていただく。  信長がまだ尾張一国のみを支配していた頃、ある日家中の福富平左衛門の金龍の面指(表指。刀の笄の事。)が盗まれたことがあった。  この時、出自が卑しい秀吉が周囲から犯人と疑われたのである。  これに対して彼は無実の証明のため、津島の富家たちの所へおもむき、例の面指を質入れに持ち込む者が現れたら報せてくれよと頼み、黄金十両を懸賞金につけて首尾良く犯人を捕らえる事ができた。  これが話の概略で、真偽はともかく、彼が津島の豪商たちにも早くから何らかのつながりがあった、というのは、その来歴や抜群の経済感覚から見て不自然ではないのではないか。  話の続きだが、その経済の天才は、泥棒を捕らえたあと、織田家の薪奉行に任命される。それまで年間で1000石以上の費用がかかっていた薪炭を、実際の使用量を厳密に実検して三分の一に抑えたとしている。このあたり、秀吉の経済センスに舌を巻いた古人たちの思いを窺うことができよう。

 彼の軍事作戦についても、一流の経済感覚は遺憾なく発揮されている。  彼にとっては信長麾下の部将としての最後の戦いとなった、天正十年(一五八二)の備中高松城攻めは、引率する軍勢の数約二千人(宇喜多氏の兵はカウントせず)。四月中旬に始まった戦いは六月はじめまで続き、その一ヶ月半で必要とした兵糧は、おおよそ米5400石になり、その金額は4億5000万円にのぼる。  また、この時の秀吉軍団の構成では、鉄炮が占める割合は全体の約二割くらいであろうとされているので、鉄炮の数は四千挺。これだと、鉄炮・弾薬で17億円がかかってくる計算になる。しかも、この戦いでは、他にもっと莫大な経費が発生することになった。  いわずと知れた「水攻め」の為の費用である。高松城の難攻不落ぶりを見た秀吉が、驚天動地のアイディアによって城の周囲に全長三キロメートルの堤を構築し、城を水攻めにすることにしたのだ。  近在の農民たちに触れだして、土俵一俵につき米一升と銭100文を支払うことにより突貫工事に協力させ、結果として、この堤防築造に米6万3500石と銭63万5000貫をかけたといわれている。  銭63万5000貫を高松城攻め当時の米価相場で換算すると55万石余りとなるから、米の現物支払い分と合わせて61万5000石が消費されたことがわかり、驚きの461億2500万円! が計上されてくるのだ。  しかも、この費用は奈良という離れた土地での米価を参考にしており、実際現地では米が極端に不足していただろうから、搬送代や現地買い入れ代を考えると、もっと価格がはね上がってしまうのは明らかになってくる。  土木作業におけるヒトとモノの集中をあっさりとやってのけてしまう秀吉、そのための金銭の一大集積をも可能にしてしまった秀吉の、面目躍如となる話ではないだろうか。  

【関連記事】