小泉郵政解散を意識? 平成以降の主な解散 坂東太郎のよくわかる時事用語
(2)政治改革解散またはうそつき解散(1993年)
海部氏の後に首相になった宮澤喜一氏(在任1991年11月5日~1993年8月9日)は前政権からの懸案だった政治改革を衆議院の選挙制度改革として「今国会で必ずやります」と実現させるような発言をした後に先送り。野党は一斉に「うそつきだ」と猛反発し93年6月、衆議院に内閣不信任決議案を提出しました。 首相は最終的に衆議院の指名で決まるので決議されるとしたら与党の分裂が必要な場合が多く、この時はそれが起きました。政治改革を強く主張する小沢一郎氏を実質的リーダーとする羽田孜派が決議案に同調し、可決してしまいました。憲法69条の規定では10日以内に解散しなければ総辞職です。宮澤内閣は69条は内閣が解散か総辞職のどちらかを選べる規定と解釈して決議の後に7条解散を決めて同日夜に解散しました。69条解散だと二択を選んだ形になるので少しでも体裁をよくしたかったのでしょう。実質は69条解散です。 このように首相がやりたい時期に行えなかった解散はしばしば敗北を招きます。解散後、羽田派は自民党を飛び出して新生党を結成。他の自民党離党者も新党さきがけを作ります。これに加えて前年に結成された細川護煕氏をリーダーとする日本新党など「新党ブーム」が起こり、自民党は223議席と過半数を大きく割り込みました。共産党を除く非自民各党・会派は合わせると過半数に達し、連立して細川護煕を首相の座へと導きました。
(3)神の国解散(2000年)
さまざまな失言で名をはせた森喜朗首相(在任2000年4月5日~2001年4月26日)が日本は「天皇を中心としている神の国」と発言した後の2000年6月に解散。自民党は議席を大きく減らし、小渕恵三前政権から連立を組んだ公明党と保守党の議席を合わせて安定多数を確保し、政権は続行。この選挙で飛躍したのが民主党でした。
(4)郵政解散(2005年)
……前述の通り。
(5)追い込まれ解散またはマニフェスト選挙(2009年)
参議院選挙もなく衆議院の解散もしなかった福田康夫首相の後を引き継ぎ「人気者」麻生太郎首相が誕生しました(在任2008年9月24日~2009年9月16日)。翌年8月の任期満了を控え、誰もが早期の解散を打ってくるだろうと予想し、麻生氏自身も『文藝春秋』08年11月号に「私は決断した。野党は政局優先の姿勢だ。国会の冒頭、堂々と私と自民党の政策を(民主党の)小沢(一郎)代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う」とまで言っておきながら踏み切れず。 ご本人はリーマンショック後の経済政策優先と正当化するも07年参議院選挙で快勝した民主党の党勢に恐れをなしたとか、冒頭解散で敗北したら史上有数の短命内閣になるのを嫌ったなどと憶測が流れました。09年7月の東京都議会議員選挙でも民主党に敗北し、刻々と任期満了が近づく中、自らの失言や「漢字読めない」問題、閣僚の辞任など支持率も低空飛行のまま追い込まれてほぼ任期満了に近い7月に解散しました。事実上の任期満了選挙です。 首相の解散権とは、与党にとって最もタイミングがいい時に発揮できるから意味を持ちます。それが事実上の任期満了選挙では行使したとはいいがたい状況でした。満を持していた野党第一党の民主党は「コンクリートから人へ」と題するバラ色のメニュー「マニフェスト」を武器に圧勝。戦後初めての本格的な政権交代となりました。