「当事者にとっては救いの学校なんです」--日本語も人生も支える、ある夜間中学教師の36年
夜間中学には時代が映る
日本に夜間中学ができたのは1947年のことだ。戦後の混乱と貧困の中、学校に行けず働く子どもたちにどうにか義務教育を施すためだった。昼間は働いて、夜に学校に通う夜間中学がまず大阪に開かれた。 夜間中学は、日本語教育の場ともなっていく。1965年の日韓基本条約締結をきっかけに、在韓日本人が帰国し始めたからだ。彼らの中には日本語があまり話せない子どもたちもいたが、その子どもらも夜間中学が受け入れた。1970年代には日中国交正常化を機に中国からの引き揚げ者が増えはじめ、その真っただ中に関本さんは飛び込んでいった。 「1975年以降の夜間には、ベトナムなどからインドシナ難民がやってくるようになります。そして2000年代に入ると、仕事や国際結婚などさまざまな理由で日本に来た移民たちや、その子どもが増えていきました」
関本さんたち夜間の教員は、外国人生徒たちの生活すべてを受け止めていく。日本語があまり話せない生徒が体調を崩せば、病院に同行した。貧しい家庭の生徒が多かったから、就学援助の申請も手伝った。 「生徒たちは、昼間はアルバイトして家計を支えているわけですが、就学援助を受けるにはその収入を確定申告することが必要なんです。外国人には難しいから、それを教員総出でやってね」 卒業を控えた生徒たちの就職活動にも奔走した。 「新聞の折り込み広告の求人を見て片っ端から電話したり、もうちょっと給料上げてもらえませんか、と交渉したりね」 そして、願わくは高校に入ってくれるよう、根気強く授業を繰り返した。 「外国人の子どもたちに将来の目標を聞くと、正社員になりたいって答えがよく返ってくる。そこで求人票を見せるんですよ。ほら、みんな『高卒以上』って書いてあるだろって。だからがんばって、夜間中学を出て高校に行こうな、と指導するんですよ。高校に行けば大学に行く道も開ける。正社員にもなれる。すると生活も収入も安定する。それは日本社会の安定にもつながるでしょう」 どうしてそこまで生徒のために? 関本さんにそう聞くと「それはまあ先輩たちもやってきたことだし」と照れくさそうにしながらも答えてくれた。 「誰かがこういうことをやらなかったら、外国人に対する誤解を広げて、社会的にも分断を生むじゃないですか。それは外国人にとっても、日本社会にとっても、お互いに不幸なことだと思うんですよ」 関本さんは2014年に退職後も、夜間中学の増設を目指す運動を行い、また外国人の子どもを学習支援する教室でも教え続けている。