<京都・センバツ初出場物語>/2 龍谷大平安(第5回・1928年) 留学生チーム支える /京都
全国最多となる41回のセンバツ出場を誇る龍谷大平安の前身・平安中が、初めて春の甲子園に姿を見せたのは1928年の第5回。27年夏の甲子園に初出場して1勝を挙げ、日の出の勢いだったチームを支えた伊藤、西村のバッテリー、1番遊撃の稲田らは日本統治下にあった台湾・アミ族の留学生だった。台湾に当時あった西本願寺別院の平安中OBの住職が、彼らの並外れた身体能力に感服して橋渡しをし、日本名を名乗って試合に出場していた。 記念すべきセンバツ初戦は4月1日、第1回から連続出場を続けていた松山商との1回戦。豪速球で相手打線を抑え込んでいた伊藤が九回表につかまり、4点を勝ち越された。その裏、四球で出た伊藤は果敢に二盗を決め、敵失に乗じて生還するなど最後まで闘志あふれる戦いぶりだったが、3―6で敗れた。 平安中はこの後、戦前で最後のセンバツとなった41年までの14大会中、13回出場。誰もが認める全国的な強豪となり、戦後もその地位を保って夏3回の全国制覇を重ねた。しかし、春の頂点にはなかなか手が届かず、原田英彦監督率いる龍谷大平安が初めて紫紺の大旗を手にしたのは、2014年の第86回。38回目の春の挑戦だった。【矢倉健次】=随時掲載