赤穂浪士は"バカ殿"の尻ぬぐいで切腹させられた…「美談」として描かれる『忠臣蔵』の"不都合な真実"
元禄15(1702)年の旧暦12月14日、大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、主君の敵・吉良上野介を討ち取った。「忠臣蔵」の名で知られる有名な事件だ。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「主君のために自らの命を捧げた赤穂浪士たちの美談として語られるが、事実を追っていくと別の側面が見えてくる」という――。(第1回) 【画像】「主君の仇討ちを遂げた美談」として語られているが、その真実は残酷なものだった… ※本稿は、本郷和人『日本史の偉人の虚像を暴く』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。 ■日本初の「主君の敵討ち事件」 歌舞伎や講談などの演目で知られる『忠臣蔵』のもととなった、いわゆる赤穂事件は、元禄14(1701)年3月14日、江戸城、松の廊下にて起きた刃傷事件に端を発した、「日本初」の主君の敵討ち事件です。「日本初」という点については、追々解説したいと思います。 赤穂事件は、赤穂藩の第3代藩主である浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家筆頭の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を突如として斬りつけたことから始まります。当時、長矩は朝廷からの使者をもてなす勅使饗応役を務めており、吉良義央はその指南役という間柄でした。江戸幕府は毎年1月、朝廷へ年賀の挨拶を行います。その返礼に朝廷から勅使が派遣され、2~3月にその使者を迎える儀式が数日間にわたり行われる慣例となっていました。 事件が起きた3月14日は、この年の儀式の最終日にあたる日です。江戸城内、しかも朝廷の使者が滞在しているときに、刃傷事件を引き起こした浅野長矩に幕府は厳重な処罰を与えました。将軍・徳川綱吉は即日、切腹を言い渡しています。そして、浅野家は改易(かいえき)、つまり領地を没収され、御家は断絶となりました。斬りつけられた吉良義央は命に別状はなく、しかも一切のお咎めはありませんでした。 松の廊下での刃傷事件の翌年、赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助は、46人の赤穂浪士を引き連れ、吉良邸へと押し入り、主君の敵である吉良義央を討ち取り、本懐を遂げました。その後、討ち入りに参加した赤穂浪士全員、切腹に処せられました。この一連の顚末が、いわゆる赤穂事件です。