【エッセイ】黒人男性の子供を授かった私は、妊娠したことを家族に言い出せなかった
人種の違う男性とのあいだに子供を授かった筆者。自分には人種に対する差別意識などないと思っていたのに、伝統的な考え方を守る中国系の親族を前にしたとき、お腹に子供がいると言い出せず──。
「似ていない」母子を見る人々のまなざし
息子のローマンが本から顔をあげて、私のほうを向いて言った。「ママ、毛布をとってもらえる? いま大好きなところを読んでいて、中断したくないんだ」 息子を見ると、そこに自分を見る──どんなに小さなケガでも、痛みというものに耐えられず、暗闇や、人けのない通りや、天井にいる奇妙な虫に心底怯え、読書に対する熱い不変の愛を抱いている。 でも自分が最も反映されているのは、息子の顔だ。目がそっくりで、左目が右目よりほんの少しだけ大きくて、特に疲れているとこの違いが際立つ。それと、どんなに深刻な状況でも歯をニッと見せて笑うその笑顔。全部、私そのものだ。 ところが二人で通りを歩いていると、多くの人が、息子がいかに私に似ていないか、二人がどんなに信じられないくらい見た目が違うか、息子がどれほど父親と瓜二つかを言わずにはいられないようだ。しかも、ずいぶんときっぱり、そう言うのだ。 息子には、二つの人種の血が流れている。父親はハイチ系米国人で、私は中国系だ。私はよく、息子が自分の子供であることを証明しなければならない。息子を毎日、地下鉄で学校に連れて行く道中、少なくとも誰か一人は私のことを見て、それから息子のことを見て、再度、私のことを見る。 私はこうした人たちの考えていることをイヤでも想像させられる──子供の肌は褐色で、髪は波打っている。でも私は色白で、そばかすができやすく、カールを保てない髪をしている。偶然にも彼らの目が私の目と合えば、彼らは私に睨めつけられ、彼らが沈黙のうちに下した判断の責任を問われることになる。 もしかしたら私は、目の前に立つ二人の人間──車両の窓に映る、手をつなぐ母子──について不思議に思う、通りすがりの人たちに厳しすぎるのかもしれない。 でも私の判断にも根拠はあって、そのために他人の視線を感じると、新たな気持ちで彼らと向き合うことを余儀なくされる。