上京民が絶句「“短い”10両編成が参りま~す」 なぜ東京じゃ15両もフツーに? 列車の長さ、どう決まるのか
「汽車」は長い/「電車」は短い
蒸気機関車の時代に1000人を運ぶ場合、10両1列車ならば機関車1台、機関士・機関助手1組で済むので、運行する側から見れば効率的です。ただ、これが1日あたり1000人ならば、1日1列車しか走らないことになります。東京―九州間のように長距離であればそれでも良いのですが、短い区間ならば移動時間よりも待ち時間が長くなり、利用者にとっては使いづらいです。 なので、短距離であれば待ち時間を短くするために、5分おき10分おきと多くの列車を走らせ、それで1列車あたりの乗車人数が少なくなれば、編成は短くなります。昔の人は長距離移動で編成が長い列車を「汽車」、短距離移動の路面電車などを「電車」と呼び分けていました。 こうして「汽車」と「電車」が別々な交通機関として役割を分担していたのですが、1904(明治37)年に革命が起きます。私鉄の甲武鉄道(現在のJR中央線)で「汽車」が走る線路に単行の「電車」も走り始めたのです。 この頃、甲武鉄道の乗車人員は伸び悩んでおり、その対策のためか、蒸気機関車の牽く列車を短くし、電車もあわせて単行で走らせ、列車を増発し利便性を高めます。当時は山手線も蒸気運転で長い列車でしたから、多数の短い列車が汽車の線路を行き交うのは異様な光景だったようです。 長距離列車が蒸気機関車だったのは、線路の電化に資金が必要だったことと、昔の電車は二軸車でスピードも出なかったこともありました。後に東海道本線が電化され、蒸気機関車が電気機関車に置き換わりましたが汽車時代と同様の運行でした。
汽車が「電車」に→車両が足りない!?
戦後、首都圏では通勤輸送がひっ迫し、戦時中に設計された63系電車が大量製造され、10両編成が各線で走ります。東海道本線もパンク寸前まで輸送が増えました。 他方、東京駅での折り返しに機関車を付け替える時間と設備が負担になり、1950年には長距離列車用の80系「湘南電車」が登場します。客車列車の置き換えで編成が長い上に荷物車も併結され、当時の電車では世界最長の16両編成で走りました。 こうして爆増する輸送に対し汽車時代の長い列車が電車に置き換えられ、通勤電車並みに本数が増えていきました。これが新幹線や寝台電車にも引き継がれます。 首都圏は爆増する需要のため、長い編成が数分おきに運転されましたが、地方都市では汽車が電車に置き換わっただけで、待ち時間は長いままでした。しかし、国鉄末期には甲武鉄道と同様の短編成化と増発が行われるようになります。 1982年、国鉄は広島圏で「ひろしまシティ電車」として短い4両編成の列車を大増発しました。これが成功したため、各地に広がるのですが、長い編成を分割すると運転台が付いている先頭車が足りなくなります。 そこで、中間車の端を切って新しく作った運転台を取り付ける「先頭車化改造」が盛んに行われるようになりました。近郊形電車だけでなく、寝台特急電車までもが近郊形化・先頭車化改造が行われ、編成が短くなっていきました。 こうして各地で列車の増発が行われたのですが、首都圏のうち貨物列車が走る区間については、信号の関係で増発も限界になりました。そこで、従来は10両編成だった4扉の通勤電車を15両にした常磐線快速が登場しました。扉の数も日本最多、240枚に上りました。 一方、東北では機関車の廃止により客車の廃止も進みます。これを置き換えたのが701系電車です。ロングシートで定員数が多く詰め込みが効くため、客車列車よりも編成が短くなり、それまでボックスシートでゆったりと通学していたものが、都会並みの詰め込みラッシュに近くなってしまいました。