中国「陸・海の力」vs米国「空・ネットの力」―「一帯一路」が意味するもの
日本には「構想」というものがない
幕末の日本人は、黒船に驚いて、明治維新への道を走り出した。 巨大な船が、風の力ではなく蒸気の力すなわち燃焼の動力によって進むことに驚いたのだ。それは近代産業そのものの動力でもあり、19世紀から20世紀、世界は燃焼の動力、特に交通の力によって工業資本主義の発展を見た。 電気も初めは熱源=動力として扱われた。しかしその本質は信号となる、すなわち交信(コミュニケーション)のツールとなるところにあった。その交信の力によって、20世紀後半から、世界は情報資本主義の発展を見た。 近代文明の主力は、燃焼動力による交通から電子情報による交信へとシフトしたといえる。「交通」と「交信」は似た概念である。文明とは人、物、情報の交流であり、交通、交信、交換なのだ。 つまり「一帯一路」構想は、アメリカの「空の力・ネットの力」に対抗する、中国の「陸の力・海の力」である。すべからく電子情報ネットワークに向かう時代を、もう一度リアルのネットワークに戻そうとするかのようで、シルクロードという古風な言葉がそれを象徴している。「もう一つのグローバリズム・もう一つの普遍性」というべきか。 日本人には随分と気の長い話に聞こえるが、あの「長征」という、共産党軍が国民党軍との戦いの中で1万2500キロを徒歩で移動した驚くべき作戦を思えば、中国人にとっては夢物語でもないのだろう。 考えてみれば、今の日本には、遠大な「構想」というものがない。明治から昭和までと比べても。 『響きと怒り』(The Sound and the Fury)は、アメリカ南部の農園を舞台として、主人公が交代しながら連続する「家の物語」(文学的には「サーガ」と呼ばれる)である。しかし「絆」の物語ではない。その家は崩壊の過程にあり、家族は孤独な存在だ。そこには、北部と南部の分断、工業資本と農園経済の分断、黒人と白人の分断、家にすがりつこうとする者と出ていこうとする者の分断が、哀愁をもって描かれている。 アメリカ合衆国において、北部と南部の軋轢はまだ続いている。オバマからトランプへの大統領移行は、南部の白人至上主義者を勢いづけ、南北戦争リベンジの様相を呈しているのだ。 そう考えれば、『炎と怒り』『響きと怒り』、二つの本のタイトルの類似には大きな意味がある。トランプを勝たせたのは、このアメリカの深部に満ちている「怒り」、特に南部の北部に対するそれ、であったのかもしれない。 ちなみに「sound and fury」は、シェイクスピアの『マクベス』の中の一節で、激しい葛藤と後悔のセリフでもある。