幕末に天然痘ワクチンを普及させた医師、笠原良策の苦難を描いた映画が来年1月公開
幕末の福井の医師、笠原良策が注目を集めている。死病と恐れられた天然痘から人々を救うため、命がけで京都から痘苗(ワクチン)を持ち帰り、種痘(予防接種)を普及させた先覚者だ。福井市内では企画展などが相次ぎ、数々の苦難を描いた映画「雪の花 ―ともに在りて―」は来年1月24日から全国公開される。コロナ禍を経た今、感染症との闘いの歴史を改めて教えてくれる。(辰巳昌宏)
■「牛痘」を入手
「予防という概念がない時代、福井の人に種痘が安全なことを実感させた。画期的な事業だった」。市立郷土歴史博物館の山田裕輝学芸員(39)は良策の業績をこう評する。
良策は1809年に現在の福井市深見町で生まれた。福井城下で開業後、京都で医学を学んでいた45年、英国のエドワード・ジェンナーが開発した牛痘(ウシがかかる天然痘)の治療法が天然痘の予防にも有効だと知る。これがメスのような器具で腕に傷をつけ、膿(うみ)を埋め込む種痘だった。
福井藩を通して幕府へ牛痘痘苗の輸入許可を嘆願。京都で入手し、まずそこで種痘を普及させた。
■福井に持ち帰る
時間がたつと効き目がなくなる痘苗を、どう生きたまま福井に持ち込むか――。良策の日記「戦兢録(せんきょうろく)」によると、49年冬、子ども2人に接種して京都を出発。福井から連れてきた子ども2人に途中で植え継ぎ、滋賀県境の栃(とち)ノ木峠(539メートル)を越えた。
だが、2メートルを超える積雪、吹雪が行く手を阻み、あわや遭難という時、村人に助けられる。福井まで7日間の行程だった。
映画の原作となった吉村昭さんの小説「雪の花」は、難所越えの良策の心中を次のように描く。
<激しい疲労で、眼がかすんできた。手足の感覚も失われ、眠気がおそってくる。死んではならぬ、種痘をした幼児をなんとしてでも福井へ連れ帰るのだ、とかれは胸の中で叫びつづけた>
良策らはさっそく自宅の隣に仮種痘所を開設した。しかし、藩役人からは「西洋の妖術」と批判され、種痘をすると牛になるというデマも流れたため、予防接種は広まらなかった。怪しげな情報や、ぬぐいがたい不安が広がる状況はコロナ禍でも見られた。