67歳でのデビューに向けて着々と準備が進んでいる…森永卓郎さんが残りの人生をかける意外すぎるジャンル
本当に自由な生き方とは何か。経済ジャーナリストの森永卓郎さんは「私がいま『言いたい放題』『書きたい放題』やっても、暗殺者から見逃されているのは、おそらく私ががん患者で『もうすぐ死ぬ』という最強のカードを持っているからだ。余命宣告を受け、完全なる自由を獲得した私に果たせることは、まだまだ残されている」という――。 【画像】ホワイトバタフライズ ※本稿は、森永卓郎『身辺整理 死ぬまでにやること』(興陽館)の一部を再編集したものです。 ■もうすぐ死ぬから「言いたい放題」「書きたい放題」で生きる 私は65歳になり公的年金を受給することにした。これですべての仕事を失っても食うには困らないという状況を迎え、私の自由は第二ステージに突入し、「完全にはみ出す」ことを厭わなくなった。 そうして書き始めたのが、『ザイム真理教』であり、『書いてはいけない』だったのだ。 そして今、私はがんになったことで、自由の第三ステージを迎えている。余命宣告を受けていることを公表する前に『書いてはいけない』を出版していたら、私は逮捕されていたか、最悪、暗殺されていたかもしれない。 事実、テレビメディアの世界からは抹殺されたが、暗殺者から見逃されているのは、おそらく私が「もうすぐ死ぬ」という最強のカードを持っているからだ。 放っておいても死ぬ人間をわざわざリスクを冒してまで殺す必要はないと誰もが思うだろう。 かくして私は「言いたい放題」「書きたい放題」という完全なる自由を獲得している。ただ国民を扇動しようという気はない。真実を知った人が何を感じ、どんな行動に出るのかは、それこそ自由なのだ。私は一般庶民が知りようのなかったことを明るみに出して、人々に判断材料を提供しているに過ぎない。
■死を目前にした人間でなければできないことがある 誰もが真実を知る権利がある。そうでなければ正しく判断することも、真に覚悟を決めることもできないのだ。 一部の人間だけが極めて重要なことを把握していて、国民を自分達の都合のいいように操作しようという体制はゆがんでいる。 フェアーじゃない。多くのジャーナリストがそう思っているに違いないのだが、私がそうであったように、これからも生きていくことを思えば怯む。 その結果、権力に加担しなければ誠意があるほうだと考えて、ギリギリの線を行く。つまり、死を目前にした人間でなければできないことがあるということだ。 余命宣告を受け、完全なる自由を獲得した私に果たせることは、まだまだ残されていると感じている。 ■食べていくための仕事の他に、好きな仕事や趣味を 別にジャーナリストでなくても、老後は誰でも自由を獲得できるようになる。 退職して初めて迎えた元旦に愕然としたという話を聞いたことがある。昨年に比べて届いた年賀状が10分の1に減ったというのだ。 私は当たり前のことじゃないかと思った。仕事つながりの人間は仕事の幕を閉じれば離れていく。そこに虚しさを感じるなんてバカバカしい。 それより浮世の義理から卒業したと捉えたほうがいい。 そして仕事から離れ、本当にやりたいことをするために24時間、365日を使える喜びに浸るべきだ。自由を謳歌すべきなのだ。 現役中の人には、食べていくための仕事の他に、お金にはならずとも自分が好きな仕事を持つことを勧めたい。 仕事に限らず、趣味でもいい、ボランティアでもいい。一つの世界しかないというところから脱出すれば、人は自由を味わえる。 私にとって経済アナリストという仕事は、必ずしも本業ではない。単にカネが稼げている仕事になっているだけだ。それはそれでありがたいことなのだが、他にもやっている仕事はたくさんあって、それらの仕事はお金になっていないだけなのだ。 私は学生に「夢を持ってはいけない」と言い続けている。いつか叶うといいなと描く夢は、ほとんど実現しない。 持つべきものは夢ではなく、課題(タスク)だ。やりたいことはすぐにやる。 そして毎日1ミリでも前進する。それがゴールに近づく最短経路なのだ。