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不本意にセッターに転向「中田久美」 タブーを破ったトス方法とは(小林信也)

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デイリー新潮

 中学1年の終わり頃、中田久美はバレーボール雑誌で「LAエンジェルス募集」の記事を目にした。 (受けてみたい! )  直感が走った。すぐ部活の先生に相談し、春休みに選抜テストを受けた。

「バレーを始めたのは中学から。まだ1年。実績もない、ごく普通の選手でした」  中田が振り返る。だが、受けたい! と強く思った、そのひらめきが中田久美の最初の《覚醒の時》だった。  LAエンジェルスは、1976年モントリオール五輪で日本の女子バレーを金メダルに導いた山田重雄監督が、次代の日本代表を育てるために発足させた英才教育チームだ。中田が受けた2期生の選考会には700~800人もの女子中学生が集まった。合格者は100人に1人の狭き門。どうせ選ばれないだろうと、 「忘れかけていた頃、山田先生から直接電話が来たんです」  中田はわずか7人の合格者のひとりに選ばれた。 「春休みのうちに転校の手続きを取って、小平の寮に引っ越してください」  13歳の春、一人っ子の少女が突然巣立つことになった。両親の反対を、本人の強い意思が押し切った。 「背も164センチくらい。なぜ選ばれたのかわかりませんでした。両利きくらいしか特徴はなかった……」  自分の何がよかったのか、中田は引退してから山田に訊ねたことがある。 「ジャンプ力があって、ハンドリングが綺麗だった。それに、眼が全然違った」  山田は答えた。眼つきが違った、それが山田の胸を衝いたのだろうか。  中田は学校と体育館を往復し、バレーボールに明け暮れる日々を過ごした。中学3年で日本代表に選ばれ、センタープレーヤーとして代表デビューも飾った。 「私は一生懸命アタックの練習を繰り返していました。目標はエース・アタッカーです。いいスパイクを打っていた。エンジェルスでは間違いなくトップでした。ところが、ある日突然、“セッターをやれ”と言われたのです」  予期せぬ転向指令だった。  山田がLAエンジェルスを作った目的のひとつは、名セッター・松田紀子の後を担う人材の発掘だった。共に過ごす中で、山田は中田にその才能を認めたのだ。

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