大阪・松屋町の武者人形が育てた歴史作家 片山洋一さん
歴史小説「大坂誕生」でデビューを飾る
甲冑を通して歴史と向き合ううちに見えてきたことがある。地域の底力だ。片山さんは「江戸三百藩」とも呼ばれ、徳川政権に従属しつつも、大小の大名が独自の藩政運営に知恵をしぼりながら並び立っていた政治システムに着目する。 「明治維新と昭和の戦後復興を成し遂げることができたのは、幕藩体制の下、各藩で蓄積されてきた地方の底力があったからこそ。半面、2度の奇跡を起こすため、地方の力を使い果たしてしまった。国力とは地方の総合力。今いちど、地方のパワーの重要性を再評価し、充電させる必要があるのではないでしょうか」(片山さん) 地域へのまなざしが作家デビュー作を書かせた。2014年、「大坂誕生」が第6回朝日時代小説大賞優秀作となり、15年3月、朝日新聞出版から刊行された。 作品の主人公は松平忠明(ただあきら)。大坂の夏の陣終結直後の1615年6月、新しい領主として大坂へ入り、再興に挑む。家康の孫ながら5万石から10万石に加増された小大名にすぎなかったが、すぐれた行政手腕を発揮し、短期間に再興への道筋を付けた。 忠明は1619年、大和郡山へ転封となり大坂を離れ、大坂は幕府の直轄領となる。幕府はまもなく大坂城を再建。城代を派遣して西の雄藩へのにらみをきかせ、長期安定政権運営の土台を築く。 大坂の陣は小説やドラマに繰り返し描かれてきたが、大坂の陣終結から徳川大坂城築城に至る移行期の数年間は描かれることが少なかった。片山さんは史料を調べ、忠明の動きを丹念に追うことで、大坂の空白時代に光を当てた。
忠明の再興計画を助けた道頓堀のネーミング
大坂の陣直後、大坂の焼け跡には反徳川の余熱がくすぶる。籠城組と呼ばれる豊臣びいきの抗戦派もいた。小大名の忠明がきのうまでの敵地にどのようにして溶け込み、再建を進めていったのか。片山さんは「道頓堀が転機になった」と分析する。 平野郷出身の成安道頓が1612年、新しい掘割の開削に着手するものの、大坂の陣で豊臣方に与して戦死。その後、忠明の治世下で、親戚の安井九兵衛らが道頓の遺志を受け継いで開削を成し遂げる。当初南堀川の仮称で掘り進められたが、完成に伴い、忠明が「道頓堀」と命名したとされる。 「大坂再興のシンボルとなる新しい幹線水路に、忠明は敵方として討ち死にした逆賊の名前を付けたわけです。この道頓堀命名で、忠明に対する民衆の評価が変わったと思いますね。それまで町名に町民の名前を付けるという発想はなかった」(片山さん) 以降、大坂では心斎橋、宗右衛門町など、まちを開発に貢献した町人の名前が町名になっていく。 「忠明は石高こそ低かったが、人材に活躍の場を与える将の将たる器でした。大坂町人の哲学は自立と自律。自分たちでまちを作り守っていくなら、金や労力を惜しまず楽しみながらやろうではないか。こうした大坂町人の持ち味を、忠明はよく理解していた」(片山さん) 現在、2作目の長編小説を執筆中だ。