病院を襲った津波、遺された者たちの深い葛藤
東日本大震災から10年目を迎えた2021年3月11日、宮城県石巻市の市立雄勝(おがつ)病院跡に整備された慰霊公園には、病院で亡くなった犠牲者の遺族が集まっていた。入院患者の40人に加えて、病院にとどまり、命を落とした職員が24人いる。残された職員たちは、命をめぐる葛藤を抱えながら生きてきた。 【写真】津波で亡くなった父の財布に入っていた子どもからの「かたたたきけん」 一方、静岡県では内陸部から津波の浸水区域への移転を決めた病院がある。雄勝病院の教訓は生かされているのだろうか。
「震災直後は、亡くなった父に『ごめんね』としか言えなかった私が、いまやっと『ありがとう』と言えるようになりました」 雄勝病院から津波に流され亡くなった、鈴木孝壽副院長(当時58)の長女の裕美さん(33)だ。愛犬の「ジジ」を抱え、時おり言葉を詰まらせながらも、集まった知人を前にこうあいさつした。医師として患者を守ろうとした父だが、同時に家族にとってかけがえのない一家の大黒柱でもある。生き残ってほしかったという家族としての思いは、いつまでも消えない。
海岸沿いには高さ9.7メートルの防潮堤がそびえ立ち、雄勝病院の跡地から海はまったく見えない。だが震災前にあった病室の窓からは、のどかな雄勝湾を目の前に見渡すことができた。3階建ての病院が津波に襲われたとき、院内には患者40人と、医師や看護師など職員28人がいた。津波によって、患者全員と職員24人の計64人が帰ってこなかった。助かったのは、たったの4人だ。 ■語るに語れなかった職員たち 病院の被害としては東日本大震災で最大級のものだ。にもかかわらず、雄勝病院の悲劇はあまり世間に知られていない。生存者が4人しかいなかったことも理由の1つだが、それだけではない。
命を守る人たちの命は、どうあるべきか。職員たちは答えの出ない迷路を前に身動きが取れず、語るに語れなかったのだ。 まずは患者全員を死なせてしまったという負い目がある。病院から100メートルほど行けば、裏山に避難できる。だが、1人を除いて自力歩行できない高齢の入院患者を避難させることは不可能だった。それでも職員は患者を1人も助けられなかったという思いを引きずる。 一方、入院していた患者を置いて職員だけ逃げれば、生涯、その責を背負って苦悩することになる。加えて生死をわけた同僚への思いや、非番や夜勤明け、出張などで、その場にいられなかったことへの後悔もある。雄勝病院の職員は、二重三重の重荷を背負わされたのだ。誰かが言葉を発すれば、誰かが傷つく。