【追悼】谷川俊太郎 幻の矢野顕子&坂本龍一作品の存在ーー交流あった元編集長が振り返る才能と影響
詩人で翻訳家、絵本作家としても活躍した谷川俊太郎さんが11月13日に亡くなった。小学館OBで児童文学・文化評論家の野上暁氏は、『小学一年生』の編集長として谷川さんに現代詩の連載を依頼し、終了後は『いちねんせい』(小学館)という絵本にまとめて刊行して、谷川さんの詩の世界が持つ広さや深さを子どもたちに伝えてきた。今も増刷がかかるほどの『いちんせんせい』はどのようにして執筆されたのか。そこから始まる交流で野上さんが感じた谷川さんのすごさとは。 【写真】谷川俊太郎×宮内ヨシオ『生きてるってどういうこと?』 ―――『小学一年生』で谷川俊太郎さんに詩の連載を依頼した経緯を聞かせて下さい。 『小学三年生』にいた時に、童謡詩人の方ではなく現代詩人の方に書いていただこうという話になって、清水哲男さん、鈴木志郎康さん、川崎洋さんにお願いしたんです。なかなか評判が良かったですね。それで、『小学一年生』に戻ることになって、そちらでも童謡詩人ではなく現代詩人にお願いしたいということになり、詩人の清水哲男さんに相談したところ、谷川俊太郎さんが良いんじゃないのという話になって、阿佐ヶ谷の喫茶店で会ってお願いしました。 ―――谷川さんはどのような反応でしたか。 頼まれれば何でも書きますといった感じでした。谷川さんは新しいメディアが大好きで、『小学一年生』での連載も新鮮で面白いと思っていただけたようです。実は谷川さんは、小学館の社歌を作っているんですよ。創立40周年の1962年に当時の社長が頼んで「0のマーチ」という歌を作ってもらったようです。 ―――野上さんご自身は、いつ頃から谷川さんのことをご存じだったのですか? 『二十億光年の孤独』を高校時代に読んでいました。高校生でも知っている詩人ということで、歌人の寺山修司さんと同じように人気があった人だったと思います。『SNOOPY』(『ピーナッツ』)の翻訳もやっていましたし、 後になって『鉄腕アトム』の主題歌も書かれていることを知りました。文壇的な詩人というよりはポピュラーな方というイメージがありました。 ―――連載を始めるにあたって何か特別なことをお願いしたのですか。 最初に1年生が読む雑誌だからということを説明しただけで、あとは何も言うことはありませんでした。『小学一年生』を見ながら、ご自身でいろいろと考えたんだろうなと思います。『あ』から始まったのかな? 「せんせいが こくばんに あと かいた」という作品も良かったですし、『わるくち』というのも子供たちに受けましたね。確か教科書に載ったと思います。『あな』の七五調とかいろいろと工夫して面白がらせてくれました。『はえとへりこぷたあ』の「あさの くうきを きりさいて ほてぱほてぱと とびまわる」なんて、言葉遊びが面白いですよね。 ―――連載の反響はいかがでしたか。 アンケートで上位の方に来ていましたから、人気はあったと思います。それこそ『ドラえもん』より上に来たこともありました。漫画で8ページある『ドラえもん』を読むのと比べると、見開き2ページの連載ですから簡単に読めてしまう。1年生向けの雑誌ですと、そうした読みものの方が漫画よりも上に来ることもありますね。 ―――谷川さんの作品は、ひらがなで平易に書かれていてリズムもよくて、子供でもすっと読めてしまうけれど、しっかりと心に残るものがあります。大人にも強く刺さります。 大人の中にも子どもの心が残っているからでしょうし、子どもも子どもだからと侮れません。子どもの大人を見る目というのは、実はかなりシビアなんです。大人が思っていることなどもすぐに見透かされてしまう、といった話を谷川さんともしたことがあります。子どもは純粋だとよく言われますが、そうとばかりは言えない、子どもの中にもいろいろな面があるんだということを、谷川さんはずっと心の中に持っていたのだと思います。 ―――『小学一年生』での連載は、絵を和田誠さんが手掛けられました。谷川さんと和田さんは、『しのはきょろきょろ』などの絵本や『マザー・グース』の翻訳で組んでいましたが、『小学一年生』でのタッグは編集からの依頼ですか? 和田誠さんの絵を入れようというのは、谷川さんの提案だったと思います。和田さんに描いてもらえるならいいなとなって、そのままお願いしました。連載では、谷川さんから来た原稿を和田さんのところに持っていって、そのまま絵を描いて頂いていました。おふたりを会わせて相談するようなことはありませんでした。幾つもお仕事をされていましたから、和田さんとはいつもそういった進め方をされていたのではないでしょうか。 ―――『小学一年生』での連載が終わって本にまとまったものが『いちねんせい』になります。1987年12月に刊行されて第37回小学館文学賞を受賞しました。今も売れ続けている人気の絵本ですが、連載されていたのは1980年代の始めですから、本になるまでしばらくかかりました。 連載が終わった年に、すぐに本にしたいと谷川さんに言ったんです。谷川さんは詩集なんて売れないから、どうせやるのだったら僕が詩を朗読するからカセットテープを付けて売らないかと言ったんです。新潮社のカセットブックが出たのが1985年ですからそれより前。面白いなと思って打ち合わせを進めたら、僕の朗読だけではつまらないからアッコちゃん(矢野顕子さん)に歌を作ってもらって一緒に入れようとなったんです。谷川さんが、僕が言えば矢野さんもやってくれるよというので、阿佐ヶ谷の喫茶店で矢野さんと谷川さんと担当編集者も一緒に会って話すと面白がってくれました。矢野さんは、カセットが2個ではがきの大きさになるから和田誠さんの絵はがきを付けようとか、小学館だから着せ替えも付けようとか言って盛り上がりました。 ―――大事ですね。今なら書籍や画集にグッズも一緒に入れたプレジャーボックスが幾つも出ていますが、当時としては極めて異例です。どうして実現しなかったのですか。 製函屋で本とカセットと絵ハガキなどをセットする箱を作ってもらうなどして進めていて、さてバックの音楽はどうしようかということになりました。すると矢野さんは、坂本(坂本龍一さん)に頼めばいいというので、坂本さんのマネージメントをしていたヨロシタミュージックの社長に相談したら社長も乗り気で、それで進めようとなったところでコスト計算をすると、どう考えても3000円を超えてしまうんです。当時は2000円くらいが限界で、カセットを入れた本をどう売れば良いか分からないといった話も営業から出て止まってしまいました。何年かして、寝かせておくのももったいないので絵本にすることにしました。 ―――実現していたらすごい1冊になったと思います。谷川さんの連載以降、『小学一年生』ではコピーライターの糸井重里さん、劇作家で演出家・俳優の野田秀樹さんの連載が続きます。童話作家や童謡詩人とは違った人による執筆も、谷川さんの連載が拓いたものと言えそうですね。 糸井重里さんは谷川さんに紹介してもらいました。連載が終わった後で次をどうしましょうと相談したら、面白いのがいるんだよといって、糸井重里というけれど知っているかと聞かれたので知っていますと答えました。糸井さんに頼んで絵は誰が良いでしょうといった話になって、出てきたのが日比野克彦さんです。前に段ボールを工作した作品展を開いていたのを、何か付録のアイデアを頼めないかと思って見に行ったことがあって知っていたので、お願いしました。野田さんは糸井さんと話す中で出てきて、『野獣降臨(のけものきたりて)』を見て言葉遊びが面白い人だと思っていたのでお願いしました。 ――文化の最先端を行く人たちを次々と取り込んでいったところに、当時の『小学一年生』のアグレッシブさがうかがえます。 編集長になったのが30歳代の後半でまだ若かったから、勝手なことができたのではないでしょうか。先輩からはお前たちがそんな勝手なことばかりやっているから、学年誌が売れなくなったんだと散々文句を言われました(笑)