アメリカ文化と日本文化の意外な共通点(上)――文明からの「別荘感覚」
プラグマティズムと日本の美意識
近代哲学の概要を示すものとして、イギリス経験論、フランス(大陸)合理論、ドイツ観念論という言い方がある。これに対してアメリカではプラグマティズムという哲学の派が発達した。本格的に説明すれば難しくなるが、要するにアメリカでは、ヨーロッパ諸国のように経験や論理や観念を重視するのではなく、実際に役に立つということを基本にして真理を追究するということだ。 僕はこの「効用」の哲学が、日本にもある程度当てはまるように思う。ただ日本の場合それが真理追究の哲学思想というより、賀茂真淵や本居宣長が指摘したように中国的な学問理論(からごころ)に対する「直き心」という一種の美意識としての実用につながっている。 そういったことが、たとえば建築においては、壮麗な装飾に飾られた聖堂や宮殿より「開拓者の小屋」と「山里の草庵」を尊ぶ精神となって現れ、文学においては、素朴な精神、実用の価値、武の原理などとなって、また、アメリカにおいては厳しい「荒野」の大自然に対決する精神、日本においては幽玄清冽な山と川の自然に同化する情緒として現れるのではないか。
別荘感覚つまり距離感
こういったアメリカ文化と日本文化がもつ相似性は「既存の文明との距離感」から来るもののように思える。アメリカの場合は、地中海文明から西欧文明へと発達した人類の文明のメインストリームに対するものであり、日本の場合は中国の漢字文明あるいは国際的な仏教文明に対するものである。それは同時に、歴史との距離感であり、思想との距離感であり、構築された都市と建築に対する距離感であり、外在化された脳の蓄積に対する距離感である。 つまりどちらも「ユーラシアの帯」から少し離れた「別荘のような文化」なのだ。 現在、アメリカはまぎれもなく文明のトップランナーであり、ひところほどでないとはいえ日本はものづくり技術の雄である。しかし歴史的に見ればどちらも「文明の周縁」であろう。 文明の中心は常にその文化力を周縁に放射し、周縁はその中心へ向かう力を発動する。歴史は常に、周縁から中心に向かう人間の力によって転回するのだ。この二百年ほど、日本とアメリカがもつ文明の周縁としてのエネルギーが歴史を動かしてきたのではないか。 僕の望みは、この二つのエネルギーが、単なる軍事同盟だけにとどまるのではなく、文化的な触発の力を発揮することである。ひところと比べ、その文化交流は希薄になっているように思える。これまでにない親密さといわれるトランプ大統領と安倍首相に、それだけのゆとりがあればいいのだが…。 次回は、日本建築とアメリカ建築と近代建築との関係から、両国の文化的共通点について考えてみたい。