アメリカ文化と日本文化の意外な共通点(上)――文明からの「別荘感覚」
共通する「武」の論理
僕がアメリカ文化の一端に触れたのは、まず映画であった。まだ小さな子供であったが、年の離れた兄について『駅馬車』や『シェーン』といった西部劇映画を観にいった。そこに登場する、「荒野」の開拓者、カウボーイ、ガンマン、保安官、騎兵隊といった連中を、日本のチャンバラ映画のサムライ(浪人や侠客も含めた剣士・剣客)に重ねて見ていたこと、そしてそこにユーラシア大陸に一般的な「王と兵」の歴史によって培われたものとは異なる「武の原理」があることを、前回、トランプ大統領の大相撲観戦に絡めて書いた。その「カウボーイの武」と「サムライの武」は19世紀まで続いていたのであり、その後もこの二つの国に、そういった精神が残っているように思える。 たしか1970年代だったが、司馬遼太郎氏と陳舜臣氏との対談で、陳氏は、中国人の目から見ると日本人は短絡的に武力に訴える民族と映る、と発言していた。戦後の平和な時代に育った僕にはもう一つピンとこなかったが、歴史を振り返ってみればたしかにそうで、日本は武家政権が長く続き、明治以後も対外戦争が頻繁であった。 戦前に上海で活躍し中国語も堪能だった叔父が、戦後になって僕にいったことがある。「中国人は、日本人から見るとまるで喧嘩しているようにそれぞれ激しく主張するが、決して手を出さない、逆に日本人は、しつこく言い合うより力ずくで片づけるクセがある」と。さまざまな文化がせめぎ合う大陸の人間と、比較的均質な島国の人間との違いであるかもしれない。 つまりアメリカの武と日本の武には、どこか共通する原理が働いていることを感じるのだ。とはいえそれは現代の安全保障とつながる論理ではない。あくまで文化の質の問題であって、今のアメリカの武の現実と日本の武の現実には、むしろ対照的というべき差異がある。
豊かさのアメリカ
僕のアメリカ文化体験をもう少し追えば、映画に続いて、テレビのホームドラマに接した。『パパ大好き』『うちのママは世界一』など、温かく楽しげな家族の生活に、日本とはかけ離れた豊かさを垣間見た。そしてラジオから流れてくる、コニー・フランシスやエルビス・プレスリーなどの軽音楽に触れ、特にハリー・ベラフォンテやプラターズといった黒人ボーカルに魅せられて初めてレコードというものを買った。当時の僕にとってはとても高い買い物だったが、そこにアメリカ文化への憧憬が働いていた。 スポーツに関していえば、相撲は日本だけのもの、野球はアメリカが本場という感覚だった。メジャーリーグの一チームが来日すると、全日本の選抜チームが対戦するのだが、それでも勝てなかった。体格の相違、力の相違を認識させられた。つまり僕らの世代のアメリカ文化体験は、戦争に負けて生活するのがやっとの国の少年の目で、メディアをとおして見た、圧倒的な強さと豊かさと楽しさと自由と民主主義であり、それに対する憧れであった。