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『船中八策』の本当の作者・赤松小三郎<その2>

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■第2回 「『船中八策』の本当の提唱者」 赤松小三郎・その2

 江戸に着いた小三郎が最初に見たのは、海であった。山深い上田にいたときには決して見ることが出来なかった広い海である。「これが海というものか」。小三郎は水平線の彼方まで視線を移しながら、あの先には一体何があり、どのような国があるのだろう、と憧れに近い不思議さを思った。 この記事の写真はこちら  小三郎は、早速に幕臣で数学者の師匠・内田弥太郎の和算塾「瑪得瑪弟加(マテマテカ)塾」に入門した。当て字だが、マテマテカとは、オランダ語で「数学」をいう。弥太郎は、蘭学(オランダの学問)・天文・暦学・地理・測量にも秀でた、一種の天才であった。今の数学に使われる「微分」「積分」という用語の名付け親でもある。  弥太郎を通じて和算ばかりか、蘭学にも目覚めた小三郎は、さらに砲術などにも興味を持った。嘉永5年(1852)、小三郎は弥太郎の紹介で、洋学者・下曾根金三郎の下曾根稽古塾に入り蘭学と砲術を学んだ。金三郎は、筋金入りの洋学とは別にお菓子を好きで「甘納豆」という新しいお菓子を作り出した人物でもある。  金三郎の洋学と砲術は、天保11年(1840)の中国・アヘン戦争がきっかけだった。「砲術は国を護る第一の武備である。だからこそ新しい武備を充実する必要がある」と金三郎は教えた。そのための蘭学であり、オランダ語であるとも言った。小三郎は、金三郎の教え(蘭学・砲術)にのめり込んだ。  その翌年、嘉永6年6月3日、江戸湾浦賀沖に4隻のアメリカ艦隊が現れた。「黒船」である。幕閣どころか日本中を震撼させる出来事であった。小三郎は、この黒船を浦賀まで見物に行った。そして、初めて見るアメリカ軍鑑の大きさに驚愕した。いわゆるカルチャーショックである。  この後、小三郎は老中であった藩主・忠固に呼び出されて諮問され「開国の必要性と黒船や西洋式兵備の充実」などを答えた。忠固は、老中首座・阿部正弘に対して、小三郎の提案を伝えている。これが後の日米和親条約の成立に影響を与えた。  この年の秋、5年ぶりに信州・上田に戻った小三郎は、赤松家の養子となった。そして翌年(嘉永7年・安政元年)初夏には、再び江戸に向かった。以前と同様に内田弥太郎・下曾根金三郎の塾で学んだが、やや物足りなくなっていた小三郎は、安政2年(1855)春、幕臣・勝麟太郎(海舟)の私塾に入門した。小三郎25歳、勝33歳である。因みに坂本龍馬が勝の門を叩くのは、この7年後、文久2年(1862)のことである。  軽輩の小三郎は、住み込みの下働きという形で勝の門下生になった。この時期、幕府は長崎に海軍伝習所を置くことになった。小三郎の意見が反映されたのである。が小三郎はそんなことは知らない。知らないまま、伝習所に赴く勝の従者として小三郎も長崎に向かった。正式の伝習生ではないが安政2年9月、小三郎は軍鑑「昇平丸」で200人近い伝習生とともに長崎に向かった。          (第3回に続く)

文/江宮 隆之

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