福永武彦「廃市」 遠くから愛した水の故郷 【あの名作その時代シリーズ】
「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は07年1月21日付のものです。 ********** 物語の背景に水の流れる音が絶え間なく響いている。小説『廃市(はいし)』は、卒業論文を書くため見知らぬ町を訪れた“僕”が、河の水音(みずおと)が気になって眠れないという場面から始まる。掘割(ほりわり)が縦横に通じ、白壁や蔵が残る古い町。「さながら水に浮いた灰色の棺である」という北原白秋の引用。舞台は白秋が“廃市”と呼んだ、柳川であるように思われる。 福永作品のほとんどに絶望的な愛と死が描かれる。「愛と孤独の作家」と呼ばれたゆえんで、『廃市』はその特徴を顕著に帯びた作品だ。“僕”は宿泊先の旧家で、その家の姉妹と姉婿(むこ)との奇妙な三角関係を知る。夫が妹を愛していると信じ、身を引こうと寺にこもる姉・郁代。郁代を愛していると主張しながらも、郁代に出ていかれた寂しさで愛人をつくる夫・直之。黙したままの妹・安子。登場人物はそれぞれに誰かを愛しているが、本当の思いを相手に伝えず、ただ遠くから想うのみである。その「距離」が誤解を生み、悲劇の結末へじわりとつながる。 彼らはなぜ自分の思いを伝えようとしないのか。私にはもどかしかった。考えるばかりで成就しない恋愛。そんな愛を描き続けた福永武彦がたどった人生はどんなものだったのか。福永がその作品のほとんどを執筆した長野県・信濃追分(おいわけ)を訪ねた。
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西日本新聞