最高司令官は「クレムリンの工作員」、プーチン戦略を揺るがすFSBの大失態
ウクライナの首都キーウに特殊部隊を投入して、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領を殺害、首都を制圧し、傀儡政権を樹立する――ロシア軍のウクライナ侵攻はそんなシナリオで開始される、と米英の情報機関は想定していたようだ。 だから、ロシアはウクライナ政府高官の「殺害リスト」を作成した、といった情報も伝えられていた。しかし、実際には緒戦の突撃作戦は大失敗で、ロシア軍の苦戦が続いている。 実は、その突撃作戦を担った特殊部隊は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の肝いりで連邦保安局(FSB)内に創設された秘密工作機関だった。この工作機関を率いていた上級大将は逮捕・拘禁され、工作員約150人は解雇されたとみられる。 ウクライナ侵攻では、指揮・命令は現地ではなく、クレムリンから発していると伝えられる。プーチン大統領自身の責任も否定できないとみられ、ロシア情報機関の中核であるFSBは動揺しているようだ。
大統領就任は「KGBの勝利」
プーチン氏は1952年レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)生まれで今年10月7日、70歳になる。レニングラード大学を卒業して、旧ソ連国家保安委員会(KGB)工作員となり、旧東ドイツ・ドレスデンの駐在先から「ベルリンの壁崩壊」後に帰国。サンクトペテルブルク副市長などを経て、1996年に首都モスクワに移り、大統領府副長官、FSB長官、首相などを務めた。大統領代行を経て、2000年3月の大統領選挙で当選、1期4年の任期を2期務めた。その後腹心のドミトリー・メドベージェフ氏の大統領在任中は首相を務め、2012年に再出馬して当選。現在は1期6年の任期の2期目だが、憲法改正で2024年の任期切れ以降も出馬は可能だ。 疾風の如く、クレムリン入り後わずか約4年で大統領の座に駈け上がった。 その理由の第一は、1999年8月に首相に就任したばかりのプーチン氏が「テロ対策」で徹底的な強硬策に出て、市民の不安を払拭し、人気を上げたことだ。 同年8月から9月にかけて首都モスクワなどの高層アパートで起きた連続爆破事件で約300人が死亡、1000人以上の負傷者を出した。プーチン氏はチェチェン独立派武装勢力のテロと断定してチェチェンを攻撃し、世論の支持を得た。 しかしこの事件では、証拠とされる爆弾などをめぐって多々不審な疑問が浮上、FSBによる偽装テロの疑いが濃厚と伝えられている。 第二は、プーチン首相が「大統領代行」として、「辞任するボリス・エリツィン元大統領と家族に対する汚職の訴追」をしないと保証する決定を出したこと。実際は、不訴追を条件にエリツィン氏を辞任に追いやったという、いかにも元工作員らしい手口だった。 まさに、プーチン氏の大統領就任は、「KGBの勝利」(オレグ・カルーギン退役KGB少将)だったとみていいだろう。背後で旧KGB人脈が組織を挙げて支援した。