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鎌倉時代から続く“丁稚奉公制度”を壊した「書店ストライキ」は時代の転機だった

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文春オンライン

「労働者の敵とは即断できぬ」岩波茂雄とはどんな人物だったのか

 岩波茂雄は1881年、長野県生まれ。旧制一高(現東大教養部)を中退し、東京帝大(現東大)選科(高校卒業資格のない生徒のクラス)卒業。教員生活の後、1913年に古書店を開業。出版業に進出し、夏目漱石の「こころ」を初出版。「哲学叢書」「漱石全集」などで業界に不動の地位を確立した。その後も「岩波新書」などを刊行。出版事業を通して「岩波文化」の名を定着させた。戦後、文化勲章を受章。自由主義的な言動で知られていた。  村上一郎「岩波茂雄と出版文化」は「岩波茂雄は、部下に対して決して冷酷無残ではなかった。安倍(能成)が書いているように家族的でもあった(特に大正時代―昭和初頭)。しかし、だからといって、ストをやられ、ひどいデフレやインフレを経るまで、彼の店員に対する経済上の待遇が親身であったなぞとは、お世辞にも言うことはできまい」と述べる。 「だからこそ、『岩波書店』というインテリ出版屋ができても、大学卒業生なぞ、そうすぐには寄りつきはしなかったのであり、そういう途(みち)が互いに開けたのは、やはりストがあって後である。昭和3年のストが、だからといって方向として正しかったかどうかは別であり、岩波がこのストに大層強引に出たからといって、またスキャップ(ストライキ時の代替労働者)をつくるのにうまかったとて、岩波が労働者の敵であるなぞと即断はできない」

鎌倉時代から続いてきた「丁稚=小僧」

 戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」は、この書店の「小僧ストライキ」に触れた際、著者の記憶としてこう書いている。 「昭和初期には、私の幼少、少年期に残っている記憶をたどっても、呉服屋、酒屋、あるいは米問屋などの商店は、“お店”といわれる大どころから、その中どころの店まで丁稚を抱えていた。彼らは三食付きの住み込み。安い給料で、本来の店の仕事のみならず、早朝の雑巾がけから主人の子どものお守りまでさせられるのが普通であった」  ところで「丁稚=小僧」はいつから存在したのだろう。  竹内洋「立身出世主義」によれば、丁稚の語源はいくつかあるが、「こうした丁稚制度は鎌倉・室町時代に始まり、江戸時代中期以降広まった、といわれている」という。「丁稚は親戚の子弟、あるいは取り引き先などの紹介によって10歳前後に採用される。永年勤続を期待するから、通常次男以下が採用される。最初は小僧、坊主、子どもなどと呼ばれ、主人のお供や子守り、掃除など雑用に使われる。  15、6歳に半元服すると、本名に『吉』とか『末』を付けて呼ばれる。『長太郎』の場合は『長吉』とか『長末』とかになる。呼び名が簡単だからである。荷造りや金銭、商品の受け渡しなどをして手代の仕事を手伝うようになる。この間は禁酒・禁煙であり、夜には読み書き、算盤、習字などの稽古をする。17、8歳で手代となる。名前も本名となる。羽織や表付きの下駄を用いることが許される。その後約10年、30歳前後で番頭に昇格する」(同書)。

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