《ブラジル》【特別寄稿】中南米に生きて60年=移民の動機と最初の生業・キノコ栽培への挑戦(上)=モジ・ダス・クルーゼス在住 元JAIDO及びJICA農水産専門家 野澤弘司
ブラジルまでの携行資金わずか80ドル
いよいよ県庁の移住斡旋課から渡航準備の為、出航一週間前に横浜の移住斡旋所に入所すべく連絡がありました。斡旋所では面接による身上調査、身体検査、ブラジル語と現地事情の講座など充実した日々が過ぎました。 出航前日、当時の東京銀行から渡航者の携行資金の両替業務が斡旋所内で行われました。私の順番になり、ブラジルで当面必要と思われる日本食や日用品、それに世話になる人への土産物等を購入した残りの、手許総額2万9千円を差し出しました。 受け取った行員は、「これだけですか??」と不審そうな目付きで念を押し、顔をしかめました。当時のドルのレートは日々の変動制では無く一律に360円だったので、パスポートの最終ページの所定の携行資金記載欄にU$80と記帳し、両替担当者の捺印をしてから100円玉で釣り銭をくれました。 恐らく後にも先にも日本からブラジルへの移民携行資金U$80は、最低の貧乏所帯だったに違いないと“自負”しています。 然し「ブラジルに行ったら何とかなるさ」との無謀な若気の至りで、携行資金についてはとかく憂慮しませんでした。私は両親や家族の反対を押し切っての、半ば勘当同然のブラジル移民なので、今更、財産分与を無心できる立場ではありませんでした。
食べてばかりいた移民船の2カ月間
横浜港の山下桟橋には、アムステルダム船籍の貨客兼移民傭船ルイス号、1万5千トンが昼下がりの出航を前に接岸し、船上も埠頭も人また人でゴッタ返していました。埠頭で見送る親族や友人と甲板の欄かんに身を乗り出した乗船者とが、互いに引っ張り合っている色とりどりのテープは交差して閃き、辺りには古びた拡声器から漏れてくるカスレタ音色の蛍の光が何度となく繰り返されては響き渡り、さらなる哀愁に誘われました。 埠頭には私のブラジル移民をどこで知ったのか、予想外に多くの親戚や友人が見送りに来てくれ、出港間際の群集の中に、計らずもマッシュルーム栽培を体験した工場長が駆けつけてくれ、ブラジルに行ったら役に立つかも知れないと、餞別代わりにキノコ栽培者にはバイブル的存在だった岩出亥之助三重大教授の専門書『食用菌蕈類と其の培養』と白色と褐色(ボヘミアン)のマッシュルームの種菌を、千葉から山下桟橋まで電車を何度も乗り継ぎ、往時の鹿屋の海軍特攻隊上がりの上司は最後まで気遣ってくれました。 未だ響き渡っていた蛍の光に割り込むかのように、船員が出航合図の枠に吊るした銅鑼をバチで打鳴らしながら甲板を廻り始め見送人は下船しました。 「頑張れよー!」「長生きしろよー!」「お袋は心配するなよー!」「金さ貯めて早く帰って来いよー!」などなど、粗野だがむき出しな思い思いの情感溢れる歓呼の声に送られながら、移民傭船ルイス号は2隻のタグボートに曳航されながら、夕闇迫る山下桟橋を後にしました。 本船には100人余りの北海道炭鉱離職者移民、呼び寄せ家族移民、単身者移民、ロシア系難民が数家族乗船しました。最上甲板に特設された移民居住区では、隣との間仕切りや天井を帆布で囲い覆われた個室が当てがわれ、部屋には鉄パイプで出来た蚕棚式の二段ベッドが一脚と寝具が準備されただけの簡素なものでした。 2カ月間の船上生活に必要な身辺の必需品を入れたダンボール箱は部屋に入れ、他の携行荷物は船倉預かりとしました。我々の個室には冷蔵庫も空調設備も無いので、お土産のうなぎ、明太子や種菌は乗船するや、いち早く言葉を交わした、オランダのアムステルダムの商船学校を出て間もない、青年三等航海士の冷蔵庫とクーラー付きの部屋に保管を依頼しました。 横浜を出港して南半球に入るまでは盛夏で、空調の無い部屋は昼間は蒸風呂なので、甲板の日陰で終日麻雀や無責任な車座放談に興じ、時折催される運動会や演芸会や赤道祭りに参会しました。 一般船員の殆どは英国旅券を所持する香港で雇われた広東人で占められ、片言の英語を理解し、移住者への食事は沖縄から乗船した料理人が担当しました。船会社は日本食ならどこでも同じ料理と味付けと思ったようで、当初は初めて味わう沖縄料理には戸惑いましたが、その内に独特の食味にも慣れ殆ど完食しました。 朝昼晩の食事以外にも3度の間食があり、食べてばかりいたので運動不足での肥満対策として毎朝晩、動物園のクマよろしく甲板を行ったり来たり船内を徘徊しました。 とにかく2カ月間の船内生活はどの移住者に取っても、今後の移住先で遭遇するかも知れない不祥事などおくびにも予想だにしない天下泰平の日々を満喫しながら過ごしていました。 本船は日本列島を後に神戸、那覇、南シナ海の香港、マラッカ海峡のシンガポール、ペナン、インド洋のモウリシャス、ロレンソマルケス、ダーバン、ポートエリザベス、大西洋のケープタウン、リオの順で寄港し、途中インド洋での低気圧、サイクロンにも遭遇する事無く至極平穏な航海を続けました。(つづく、文中敬称略)