前代未聞の大量遭難「1963.1薬師岳遭難」、原因は二つ玉低気圧とJPCZ(日本海寒気団収束帯)か?
山岳防災気象予報士の大矢です。 今回は、日本の山岳遭難史上、最も有名な事故の1つについて取り上げます。 北アルプスの薬師岳(2926m)は無雪期にその山容を望むと、氷河によって形成されたカールがとても美しい山です。特に赤牛岳から水晶岳の稜線からは、薬師岳のカールが手に取るように見ることができます。 私は会社山岳部の夏山合宿で、赤木沢を登った後、雲ノ平から高天原経由で赤牛岳と水晶岳に行った時に、その素晴らしい姿に感動した思い出があります。1963年の1月に、この美しい山では、のちに『三八豪雪』と呼ばれる豪雪によって、愛知大学山岳部のメンバー13名全員が亡くなるという非常に悲しい遭難事故が起きています。今回のコラム記事は、この遭難事故について取り上げます。 遭難事故の原因を先に述べると、実は二つ玉低気圧によるものでした。そして気象庁の55年再解析データJRA-55によって、遭難事故時の豪雪の原因は最近でも日本海側で豪雪をもたらすJPCZ(日本海寒気団収束帯)が原因であることを明らかにし、恐らくはこれまでにない新発見としてご紹介いたします。そして、少々温暖化しても豪雪のリスクは依然として残ることもお話ししたいと思います。
13名パーティ全滅、北アルプス薬師岳の遭難事故
当時の報道や愛知大学ホームページの山岳部「薬師岳遭難」に基づいて遭難事故をまとめると以下のようになります。 ------------------------------ 愛知大学山岳部(以下、愛知大)は将来のヒマラヤ遠征も念頭に置いて、1962年年末から1963年正月の準極地法で冬山合宿を実施することになった。12月29日に先発隊が太郎小屋(現在の太郎平小屋)に到着したが、12月30日・31日ともに悪天候だったため第3キャンプ設置予定地の薬師平まで進めず、太郎小屋で停滞を余儀なくされた。12月31日には後発隊も太郎小屋に到着し、13名全員が太郎小屋に集結した。そして日本歯科大学山岳部(以下、日歯大)の6名も太郎小屋に到着したため、期せずして同時期に同じ薬師岳を目指すことになった。 12月31日、1月1日ともに吹雪のため先に進めず、両大学とも小屋に停滞。1月2日にようやく一時的に天気が回復したため、愛知大は5時40分、日歯大は7時20分に太郎小屋を出発し薬師岳頂上を目指した。次第に天気が悪化していく状況の中で、薬師平を通過し樹林を抜けた後、頂上への稜線では風速20~30mの猛烈な地吹雪となった。日歯大は9時55分に頂上に着いて10分間留まり、登りよりも長い時間をかけて14時25分に太郎小屋に帰着。その後の豪雪から辛うじて死地を脱出して、ちょうど食料が尽きた1月9日に全員無事に下山した。 愛知大は9時20分に頂上手前400mの地点で登頂を断念し撤退、全く視界が効かない地吹雪と北西の強風の中で方角を誤って東南尾根に迷い込んでしまった。1/3、1/4は更に天気が悪化したため東南尾根から正規ルートに戻ることができず、13名全員がそのまま帰らぬ人となった。 のちに三八豪雪と呼ばれる豪雪のため救助活動は困難を極めた。かなりの注目を集めた遭難事故であったため、マスコミも報道合戦となり、晴れ間を縫ってヘリコプターで太郎小屋に強制着陸した朝日新聞記者(当時)の本多勝一氏による『来た、見た、いなかった』の見出し記事(ジュリアス・シーザーによる名言『来た、見た、勝った』を捻ったもの)は大スクープとなった。 ------------------------------