大ケガで通算1000安打に届かずも…誰もが才能を認めた巨人の「天才打者」は
想像しなかったアクシデント
プロ野球の世界で「天才打者」と呼ばれる選手はそう多くない。オリックス、マリナーズ、ヤンキース、マーリンズで前人未到の通算4367安打をマークしたイチローは異論がないだろう。元広島・前田智徳、元巨人・高橋由伸の名前も浮かぶ。誰よりも努力したのは当然だが、守備での身のこなしや体の使い方、打撃でどの球種、タイミングも正確にコンタクトする高度な野球センスに目を奪われた。 名球会入りはならなかったが…平成唯一の三冠王に輝いた「天才打者」は そして、この選手も「天才打者」の系譜に間違いなく入るだろう。1980年代中盤に主力打者として活躍した元巨人の吉村禎章だ。吉村はPL学園高に進学し、西川佳明、若井基安(共に南海)らとともに高3春のセンバツで同校初の全国制覇に貢献する。82年ドラフト3位で巨人入団。1位が槙原寛己、5位が村田真一で、他球団の同期入団を見渡すと西武は伊東勤、工藤公康、ロッテ・西村徳文、ヤクルト・小川淳司、南海(現ソフトバンク)・藤本博史と監督経験者が多い。 吉村は高卒2年目の83年に早くも素質を開花させる。規定打席に到達しなかったが、84試合出場で打率.326をマーク。翌84年は115試合出場で打率.342のハイアベレージで右翼の定位置をつかむ。広角に打ち返す打撃だけでなく、俊足と強肩にも定評があり3拍子そろった選手だった。 85年は初の規定打席に到達し、打率.328、16本塁打、56打点。阪神・バースに及ばなかったが出塁率.428を記録する。体の軸が崩されずにどの球種も正確にコンタクトしてヒットゾーンに飛ばす。好調時の吉村は「投げる球がない」と他球団を震え上がらせた。打球に力強さが増し、飛距離も伸びるように。87年には打率.322、30本塁打、86打点と自己最高の成績を残す。 巨人の将来を今後10年は背負って立つ――誰もがその未来を疑わなかったが、想像すらしなかったアクシデントに見舞われる。88年7月6日の中日戦(円山球場)。3回に通算100号本塁打を放ってメモリアルゲームとなるはずだった。ところが、8回に左翼手の守備で中尾孝義が放った左中間の飛球を捕球した際、この回から中堅の守備に入った栄村忠広と激突。倒れ込んだまま動かない吉村に、球場がざわついた。担架にグラウンドから運び出されて病院に向かった。 左ヒザの4本の靭帯のうち3本が完全に断裂し、腓骨神経も損傷する大ケガだった。日本の医療レベルでは治療できないため渡米。スポーツ医学の名医として知られるフランク・ジョーブ博士が執刀した際、「今まで見たことがないひどい切れ方で、ここまで複雑な手術は初めて」と驚くほどだった。翌89年2月に再手術してじん帯は回復していたが、神経が戻らない。足首から先を自力で動かせないため、リハビリ用に特注したバネつきのギブスをつけた。「もう一度グラウンドに戻る」と不屈の精神がなければ、このリハビリは乗り越えられなかっただろう。