【特集】エントリー台数34の“戦国時代”……1991年シーズンのF1を彩った6つの無得点チーム:後編
1991年シーズンのF1では、実に18ものチームから34台のマシンがエントリーリストに名を連ねた。そんな競争の激しいシーズンの中で、最終的にポイントを獲得できなかった6つのチームにスポットライトを当てる本特集。今回はその後編だ。 【ギャラリー】一度きりの夢舞台……1戦のみのF1出走に終わったドライバー5選 1. フォンドメタル 車両:フォンドメタルFA1ME, フォメットF1 エンジン:フォード・コスワースDFR 90度V8 出力:620bhp/12000rpm サスペンション:ダブルウィッシュボーン、プッシュロッド式スプリング/ダンパー ギヤボックス:6速マニュアル タイヤ:グッドイヤー イタリアの小規模チームの先駆けとも言えるオゼッラが前身のチーム。オゼッラは1980年から息長く活動していたが、チームの長年のパートナーであったイタリアのホイールメーカー、フォンドメタルを率いるガブリエル・ルミによって買収され、1991年から『フォンドメタル』として参戦することとなった。チームは新たにふたつの施設を設置。レースに向けた準備をイタリアのベルガモで、ニューマシンである『フォメットF1』の設計をイングランドのバイチェスターで行なった。 バイチェスターではティーノ・ベッリとロビン・ハードが陣頭指揮を執ってマシンを作っていたが、ルミの買収のタイミングが遅かったこともあり、開幕2レースには間に合わず。そのためフォンドメタルは前年にオゼッラが使用した『FA1ME』のシャシーで序盤戦を乗り切った。ドライバーも前年と変わらずオリビエ・グルイヤールの1台体制で、チームにはオゼッラ色が色濃く残っていた。 ただ、型落ちシャシーでの戦いを強いられたフォンドメタルの船出は厳しいものとなり、FA1MEを使用したアメリカGP、ブラジルGPは共に予備予選落ち。フォメットF1が投入された第3戦以降も予選にすら進めない状態が続いていたが、第6戦メキシコGPでグルイヤールは予選10番手を獲得。決勝出走を果たしたどころか、ベネトンやジョーダンといった当時の中堅チームの近くにマシンを並べた。しかし迎えた決勝では2度目のスタート時にストールしてグリッド最後尾に落ちた挙句、14周目にエンジントラブルでストップしてしまった。 グルイヤールは続くフランスGPでも予選21番手となり決勝出走を果たしてみせたが(決勝はオイル漏れによりリタイア)、フォメットF1のシャシーは劣化による歪みや剥離が発生しはじめており、またも予選落ちを繰り返すこととなった。新しいシャシーが投入された後は持ち直し、ベルギーGPとイタリアGPで決勝に進んだが、グルイヤールはそのイタリアで新シャシーを大破させてしまった。続くポルトガルGPを最後にグルイヤールはチームを離れ、彼とトレードされる形でAGSからガブリエル・タルキーニが加入して終盤3レースを走った。 フォンドメタルはフォメット社を設立してマシンを製造していたが、両者はその後分裂することとなり、ベッリとハードは1992年にヴェンチュリ・ラルースLC92を手掛けた。一方のフォンドメタルは1992年シーズン前半、フォメットF1の改良型である『GR01』を投入。これは新たに入手したコンパクトなフォードHB V8エンジンを搭載するために改良が施されたものだ。そしてルミは新たにセルジオ・リンランド率いるアスタウト社と契約し『GR02』を製作。第7戦カナダGPから投入されたGR02はしばしばグリッド中位につけるなど高いパフォーマンスを持つマシンだったが、フォンドメタルはシーズン終了を待たずに消滅した。