【もうすぐ新型登場】トヨタ86/スバルBRZ、何をもたらした? 豊田章男社長の治世の象徴と言えるワケ
86/BRZ誕生 きっかけになった人物
text:Kenichi Suzuki(鈴木ケンイチ) スバル「BRZ」はトヨタ「86」の兄弟車だ。クルマ好きであれば、誰もが知っているとは思うが、「86」と「BRZ」は、トヨタとスバルの共同開発車であり、生産はスバルが受け持つ。 【写真】詳しすぎるディテール写真 トヨタ最新スポーツ【GRヤリス】 (166枚) そして、そもそもの発端はトヨタにある。 トヨタが新たなスポーツカーを望み、その手法としてスバルとの共同開発が選ばれ、そして兄弟車「BRZ」が生まれた。 一方で、スバルにとって「BRZ」はトヨタとの絆を深めるのに大いに役立ったが、トヨタと比べれば、スバルのブランドやビジネスに与えた影響は小さい。 逆にトヨタにとって「86」の意味は重要だ。なぜなら、その誕生は、現社長である豊田章男氏が大きく関わっており、さらには、その後の社長時代を象徴するような存在になるからだ。 トヨタが新たなスポーツカーを求めたのは2000年代中盤であった。 「若者のクルマ離れという問題の解決策として新たなスポーツカーが必要である」という方針が経営陣の会議で決まった。 実際のところ、新型スポーツカーの案は、毎年のように提案されていたが、それまでは常に却下されていた。 しかし、当時、副社長であった豊田章男氏の推しを得て、スポーツカー案がついに現実のものとなったのだ。 その後、2009年の東京モーターショーに「FT-86コンセプト」が登場する。そして、2011年の「FT86-IIコンセプト」と続き、2012年となって正式にトヨタ「86」とスバル「BRZ」は発売となった。 2000年代中盤にトヨタが新たなスポーツカーを望んだのは、なぜだったのだろうか。
拡大路線を邁進 消えたスポーツカー
2000年代中盤にトヨタが新たなスポーツカーを望んだ理由は、それ以前のトヨタの姿勢にあると言えるだろう。 豊田章男氏がトヨタの社長になるのは2009年のこと。2008年のリーマンショック直後での起用だ。 そして、そのリーマンショック前の時代のトヨタは、コスト削減と規模拡大に突っ走っていた。 1995年ごろのトヨタの海外販売は約250万台といったところ。ところが2000年代にはいるとグイグイと数を伸ばし、2007年には、それまでの過去最高の680万台にまで達する。 10年ちょっとで規模を2倍以上に拡大させたのだ。 その成長時代となる2002年から、トヨタはF1に参戦したが、戦績は振るわなかった。また、2002年に先代の「スープラ」が生産を終了し、2006年に「セリカ」、そして2007年は「MR-S」も生産が終わって、とうとうトヨタにスポーツカーが消えてしまうことになる。 ビジネス的には大きく成長したものの、スポーツカーはないわ、モータースポーツでは振るわず。端的に言えば、トヨタは若者に人気のあるブランドではなくなりかけていたのだ。 そんな中で、「86」のプロジェクトの承認が下りたことになる。そして、2008年に世界を揺るがすリーマンショックが勃発。 トヨタの経営にも大きな影が差し、その挽回のためにと言う意味もあり、創業家出身となる豊田章男氏が社長に就任。 それが2009年のことであった。