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譜面を見るのではなく歌詞を見ることでドラムを叩いてきた~林立夫の自伝『東京バックビート族』

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林立夫の自伝が2月の末に出版されたということを知って、はやく読みたいと思っていたが時間がかかった。 【連載】佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」 vol.143 たまたま同じ学年だったこともあって、1971年頃から彼がレコーディングで叩いたドラムを、ぼくは幸運にもリアルタイムで聴いてきた。 だから子どもの頃に影響を受けたミュージシャンや楽曲の名前が出てきたら、それらの音源をもういちど聴きながら、ゆっくりと読み進めようと思っていた。 ところがコロナ禍の影響で仕事のペースが普通ではなくなり、落ち着いて本やレコードに向かう時間が思うように取れなくなったのだ。 そのために読了するのに、二か月以上もかかってしまった。 しかしそのおかげで、時期ごとにまとめられた自伝のなかで、目からうろこの表現に出会うことができたようにも思う。 そのひとつひとつに感慨を覚えたし、新たに知った事実に納得させられた。 最良のパートナーだった良き先輩の細野晴臣について述べていたパートは、何度も繰り返し読んでイメージをつかんだ。 細野さんは音楽のバックグラウンドが圧倒的に広いから、そのなかにある膨大なデータが僕の中のデータと瞬時にリンクするんだと思う。 キャラメル・ママでもティンパン・アレーでも、僕らのこれまでの演奏が最終的にリスナーに届いた時の印象が、仮に良かったのだとしたら、それは演奏している本人たちが”リスナー”的だったからじゃないかと、僕は思っている。(104ページ) 演奏する本人たちが”プレイヤー”であるよりも、音楽に詳しい”リスナー”的だったという林立夫の感覚は、“リスナー”に過ぎないぼくでもうなずける気がした。 そんなふうな気持ちでバンド・アレンジに取り組んで、スタジオで音楽の魔法が輝く瞬間を追い求めていたのだろう。 だからこそ彼らの周辺からは、1970年代にたくさんの名曲が誕生してきた。 高校生の頃から林立夫の音楽仲間だった鈴木茂や小原礼などは、みんな欧米のバンドのファンで、そのフォロワーになったという。 ところが深く知るために調べていくうちに、実際にはセッションマンと呼ばれる人たちが、かなり多くのレコードでバンドに代わって演奏していることがわかってきた。 しかも名うてのセッションマンたちはみんな、それぞれ”特許”のような個性を持っていたという。 当時のセッションマンは、”あれもこれも”ではなく”これしか演らない”という関わり方をしていて、”この音といったらあの人”という”特許”みたいな強みを持っていた。僕はそういうミュージシャンのあり方が好きだったし、キャラメル・ママも特許みたいなサウンドを持つことができたらいいなと思っていた。(107ページ) そんなふうにしてプロになって活躍するなかで、林立夫は「音楽全体の流れを感じると、リスナーとして自分の中に蓄積されたプレイが出てくる」という境地にまで到達することになる。 ぼくが最初に林立夫のドラムと出会ったのは、1971年の夏にFMラジオから流れてきた、南正人の「青い面影」を耳にしたことがきっかけだった。 どうしてその1曲に強く惹かれたのか、当時はよくわからなかったのだが、静かな衝撃が長く続いた。 そこで7月に発売されたアルバム『回帰線』を購入したところ、南正人の歌と同じくらいにバックのミュージシャンの演奏とアレンジが、素晴らしいものだったことに驚かされた。 そればかりではなく録音された音の解像度や、バランスも実に見事な仕上がりだと思った。 アルバムのジャケットに書かれたミュージシャンとスタッフのクレジットを何度でも見直しながら、その夏は飽きることなく一枚のレコードを聴いて過ごした。 ぼくが名前を知っていたミュージシャンは、はっぴいえんどのベーシストだった細野晴臣と、アコースティックギターの石川鷹彦、安田裕美の3人しかいなかった。 しかしスタッフに名を連ねていたプロデューサーの寺本幸司とエンジニアの吉野金次は、1970年に発売された『浅川マキの世界』を聴きこんでいたので、名前を憶えていただけでなく尊敬の気持ちも芽生えていた。 したがってミュージシャンもスタッフも、一流の人たちが揃っていることが伝わってきたのである。 『回帰線』では細野がベースを弾いて、林立夫がドラムスというコンビだったが、この二人の呼吸の合い方は格別なものに思えた。 オープニングの「Train Blue(トレイン・ブルー)」は、当時としては珍しく6分12秒もあるファンキーな楽曲だったが、そのグルーヴの心地よさは日本人の演奏とは思えないほど卓越していた。 またラジオで聴いて強く印象に残った「青い面影」のギターが、後藤次利という新人らしいということもわかった。 その少し後で判明することだが、当時の後藤次利は青山学院高等部の生徒で、軽音楽部では林立夫の後輩に当たっていたという。 それから林立夫の口利きでブレッド&バターのレコーディングに誘われて、そこからベースを弾くようになり、やがてセッションマンとして活躍した後に、加藤和彦のサディスティック・ミカ・バンドにも参加している。 そうした人と人とのつながりの起点のひとつとして、1960年代に世界を放浪してきたシンガー・ソングライターで、日本のヒッピーの元祖といわれた南正人がいたのだから、不思議なものだと思わずにはいられない。 南正人さんは義兄の家で紹介された。アルバム「回帰線」のレコーディングも、その流れで僕に話が来たのだと思う。そういう仲間のつながりから、だんだんレコーディングに呼ばれるようになっていったのがこの頃。(66ページ) 林立夫は南正人に続いて、71年から72年にかけて遠藤賢司や吉田拓郎などのレコーディングに参加したことで、次第に有名になり始めていった。 当時は携帯電話もインターネットもなかったので、実際に会って人と人が共通のセンスを感じるところから、仕事へと結びついていったのだ。 とくに音楽やファッションにはキーパーソンが何人かいて、その人たちを介してコミュニティが広がり、新しい才能が見出されていったという。 1972年からしたブレイクした吉田拓郎のベストセラー・アルバム『元気です』には、仲間だった松任谷正隆や小原礼、後藤次利とともに、林立夫がレコーディングのクレジットにドラムスと記されている。 そもそも林立夫がスタジオミュージシャンの仕事に興味を持ったのは、夢中になって聴いていた洋楽のレコードで、クレジットを調べるようになったことだった。 僕らはみんなバンド志向で、カリフォルニアだったりイギリスだったり、バンドのファンでフォロワーだった。彼らのレコードにはバンドのメンバーしか書いてないのが当たり前だったけれど、深堀していくと、どうやらバンドのメンバーじゃなくて、実際にレコーディングしている”セッションマン”と呼ばれる人たちがいるということがわかってきた。 そこから”本当にサウンドを創っている人たち”を、僕らは追いかけるようになった。(106ページ) そんなふうにしてロスアンゼルスで活躍していたセッションマンたちが、”レッキング・クルー”と呼ばれるようになり、斬新なアイディアと驚異的な演奏力でそれまでの音楽産業の常識をくつがえしていった。 その影響から林立夫が活躍し始めたロックやフォークの界隈では、誰かがアレンジを決めるのではなく、バンドのメンバーがお互いに意見を出し合ってレコーディングを進める方法が始まった。 「それ、いいね。だったら、こういうのは?」などとやり取りしながら、ミュージシャンが主導する流れで新しい音楽を生み出したのである。 それらはビートルズのメンバーたちが言ったように、「譜面には書けない」音楽が大半だった。 本書ではその辺の話がかなり具体的に語られていて、きわめて興味深いものになっている。 またジャックスやはっぴいえんど以降の日本の音楽シーンで、主流となっていくポップスの源流が、都市のファッションとも密接な関係にあったことなどについて語られている。 それにしても譜面より歌詞を見ることを重視するという林立夫のポリシーに、ぼくは読みながら何度も共鳴した。 僕はレコーディングでもライブでも、基本的に譜面を見るより詞を見て叩く方が好きだ。その方が曲に入っていける気がする。譜面を見ていると“音符”の世界からどんどん出られなくなってしまうけれど、詞を見ていると、演奏している最中に突拍子もないアイディアが出てくる。そこに”ハプニング”が起こる。僕はそれが好きなんだ。(120ページ) それが顕著だったのはユーミンが荒井由実だった時代だと思う。 曲の中でドラムが全体を先導するような瞬間が、確かに何度も出てきたように記憶している。 今回も様々な楽曲をあらためて聴いたことで、そうした瞬間を感じることになった。 とくに印象的だったのは24歳の井上陽水と、22歳の忌野清志郎が共作した「帰れない二人」である。 きわめて個性的な才能が正面からぶつかりあったことによって、それまでにない新しい音楽が誕生したのは1973年のことだ。 「帰れない二人」 作詞作曲:井上陽水・忌野清志郎 編曲:星勝 Acoustic Guitar:安田裕美、井上陽水 Electric Guitar:高中正義 Bass:細野晴臣 Drums:林立夫 Synthesizer, Mellotron Electric Harpsichord:深町純 思ったよりも 夜露は冷たく 二人の声も ふるえていました Ah Ah Ah Ah Ah Ah Ah Ah Ah Ah 「僕は君を」と 言いかけた時 街の 灯が消えました もう 星は 帰ろうとしてる 帰れない二人を残して 1コーラスの最後の2行目の直前から入ってくるドラムのフィルは、まさに林立夫の“特許”ともいえるフレーズである。 その意味では間奏のエレキギターも、やはり高中正義の“特許”といえる切れ味だった。 しかも唯一にして無二の声を持つ井上陽水が唄うのだから、何回聴いても完璧だった。 音が良いと1つ1つの音の余韻だけでOKだから無駄な演奏をしないで済む。もちろん、乗っかっているボーカルがよいってことは絶対条件で、歌がいいからこそバックはシンプルにできるってこと。(116ページ) この曲を21世紀になってから聴いていると、時空を超えて輝いていることに気付かされた。 忌野清志郎が書いた二番の歌詞が、井上陽水の伸びやかなヴォーカルによって、いつまでも深い余韻を残すのである。 こうしたスタンダード曲を創り出した林立夫の自伝を読んだ方が、5月に入ってからSpotifyに9時間にも及ぼうかという、膨大なプレイリストを公開してくれた。 読んでから聴くも良し、聴いてから読むも良し。 日本が生んだすばらしいドラマーの仕事を自伝とともに、老若男女を問わず音楽ファンの方々に知っていただければ幸いである。 譜面を見るのではなく歌詞を見ることでドラムを叩いてきた~林立夫の自伝『東京バックビート族』は、WHAT's IN? tokyoへ。

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