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曹洞宗住職が教える、いつもの日常に疲れたとき「心を楽にする小さな習慣」

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プレジデントオンライン

曹洞宗徳雄山健功寺の住職である枡野俊明さんは、「現代人には非日常が必要」と言います。疲れたときに、気軽にできる心のリフレッシュ法とは――。 【この記事の画像を見る】  ※本稿は、枡野俊明『人生は凸凹だからおもしろい 逆境を乗り越えるための「禅」の作法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。 ■日本人の美「わび、さび」とは  千利休の茶の湯は「わび茶」といわれます。わびは漢字を当てれば「侘び」で、わびしいこと、また、質素、簡素なことを意味しています。  一方、さびは「寂び」。その意味はさびれていること、枯れていること、古びている、ということです。  どんなものも、ときの移ろいのなかでさびれたり、枯れたり、古びたりしていきます。もともとの姿を失い、どんどん不完全になっていく。しかし、そこにはもとの姿にはない、もとの姿とは違った、美しさがあります。それがさびの美といえるでしょう。  さびの美はわびしさをともなったり、どこまでも質素、簡素であったりします。ともすると、それらは美しさを損なう要素とも受けとられますが、そう受けとるのではなく、そこに風情、趣、おもしろみ……といったものを感じていくのがわびです。  質素でわびしい佇まいの茶室という空間で、簡素に徹した茶道具や花、軸などを用いて、茶の湯の世界を展開する。それが利休のわび茶といっていいでしょう。その流れが現在にまで受け継がれているのは、わび、さびに感応する心、それを美しいとする心を日本人がもち合わせているからである、といっていいと思います。  たとえば、それは古い禅寺の苔むした灯籠に趣を見る心です。満開の桜より、散りゆく桜のはかなさに美しさを感じる心です。

■「何もない環境」になぜ人は惹かれるのか  わび、さびに対する憧憬は古くから日本人のなかにあったと思われます。僧侶であり、歌人でもあった西行法師は、平安末期に由緒ある武家の家系に生まれます。しかし、若くして裕福な武士の立場をみずから捨て、出家して諸国を漂泊するのです。  最終的に西行が選んだ暮らしは、京都北麓の山中に結んだ庵での隠遁生活でした。わび、さびへの憧れがそうさせたといっても、けっして過言ではないでしょう。  衣食住のどれをとっても、武士としての生活は、豊かでなに不自由のないものだったと想像されます。それに比べて隠遁生活は、いずれも満たされるものではなかったでしょう。しかし、その満たされないところに、不完全なところに、あえて西行は身を置いたのです。  そして、その生活を受け容れた。山中の庵では季節の移ろいを肌で感じることができたでしょう。小鳥のさえずりや川のせせらぎ、風のそよぎの心地よさを思うさま楽しむことができたはずです。  それは、満たされないがゆえに手に入れることができた暮らし、不完全がもたらした美しい暮らしではなかったでしょうか。そのなかにいて西行は、わび、さび(の美)を満喫していたのだと思います。 ■利便性を手放して気づく豊かさ  日本で曹洞宗を開いた道元禅師にこんな言葉があります。  「放てば手に満てり」  もっているものを手放すことで、よりすばらしいものが満ちてくる、という意味でしょう。この言葉はどこか、この時代に対する警鐘にも聞こえます。たくさんのものをもち、多くの利便性に囲まれている、というのが現代人の暮らしです。  しかし、誰もが心のどこかで満たされない思いを感じているのもたしかでしょう。いっときでもそれらを手放す、それらから離れる時間をもつことが必要なのではないでしょうか。  たとえば、携帯電話をもたずに山あいの鄙びた温泉宿で一日、二日過ごす。利便性から離れたその時間は、わび、さびの世界(利便性が崩れた不完全な世界)に身を置く時間といっていいかもしれません。そして、それは、心を穏やかさ、あたたかさ、潤い……で満たすはずです。  年に一度でも、二度でも、そんな機会をもちませんか。

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