シガー・ロスが語る日本との絆、オーケストラ公演の全容、希望とメランコリーの30年
『ÁTTA』で向き合った「世界の終わり」
―次に『ÁTTA』についても伺いたいんですが、まずリリースまでに、これまでで最も長い10年の空白が生まれました。 ゲオルグ:確かにそうなんだけど、実際の作業にはそこまで時間を要したわけじゃないんだ。バンドが休止状態にあった期間が長かったというだけでね。誰にとっても不愉快な出来事が重なって、本当に大きな試練に直面したよ。まずオーリーの脱退があって、脱税云々のゴタゴタが起きて、結果的には無駄に苦しめられたわけだけど、卑劣な仕打ちだったと思う。そんなわけで当分は何もやりたくなかったというか、「僕らはバンドなんだから音楽を作ろうじゃないか」という気持ちにはなかなかなれなかった。楽しいと思えなかったんだ。 そういう状態が長く続いたのちに、キャータンがLAに住んでいるヨンシーの家に遊びに行ったのが、活動再開のきっかけになった。キャータンは別の仕事でたまたまアメリカにいたのか、よく覚えていないけど、とにかくふたりはヨンシーの家で曲作りを始めて、ある日「アルバム作りをスタートできそうだから君もこっちに来てくれ」と呼び出されたんだ(笑)。で、2人と合流して本格的に作業を始めると、それからは結構速かったよ。曲が生まれてくるままに任せたというか、曲が自ら進むべき方向を示してくれたようなところがあってね。 ―では、このアルバムから読み取れるシガー・ロスの現在地とは? ゲオルグ:キャータンとヨンシーがどう考えているのかは別にして、このアルバムは僕にとってすごく内省的な作品で、自分たちの内面に目を向けていると思う。非常に美しく、希望とメランコリーが入り混じっていて……まあ、希望とメランコリーと言えばシガー・ロスのデフォルトなんだろうけど(笑)、今回はそれを異なる形で表現しているように感じるんだ。決して敷居が低い作品ではないし、シガー・ロスを初めて聞く人には向いていないのかもしれない。……いや、そうとも言い切れないのか。このアルバムを気に入ってくれて、ほかの作品でビックリするというパターンもあり得るよね(笑)。とにかく『ÁTTA』にはどこか、2ndアルバム『Ágætis Byrjun』に似たところがあるんじゃないかな。“ágætis byrjun”にはアイスランド語で“新しい一歩”とか“良き始まり”といった意味があって、このアルバムも何かに向かう新しい一歩になるのかもしれない。それは果たして、終焉に向かう始まりなのか? 今は何もかもが終焉に向かっているようなところがあるからね(笑)。ひとつの始まりは常に何かの終わりを意味し、ひとつの終わりは何かの始まりになる。 ―内省的な作品になったのは、外の世界から自分たちを守りたいという想いも影響したんじゃないでしょうか? 当時バンドに起きていたことにしろ、パンデミックや紛争など世界に起きていたことにしろ、リアリティから距離を置いて、自分たちが安心できる場所を作り上げたかのような、ドリーミーで静謐なサウンドが広がっています。 ゲオルグ:そうだね。間違いなく影響したと思う。ああいう状況下で、じゃあ僕らはバンドとしてそれをどう受け止めるのか?と自分たちに問うていた。と同時に、そこから外の世界を眺めてもいる。ほら、何かの内側に入らないとその外側を眺めることはできないと思うし、内面と向き合うと共に今の世界はどういう状況にあるのか、何が起きているのか、ちゃんと目を向けていた。そういう意味で僕らの頭には、“世界の終わり”というアイデアがあったんだよね。 さっきも触れたけど、実際に、色んな面で世界が終ろうとしていると実感させることが起きていた。パンデミック然り、幾つもの紛争然り。そういう状況は今も変わっていないし、フェーズがさらに変化して社会が二分化され、ふたつの極に振り切れてしまったよね。何が正しくて何が間違いなのか、人々の捉え方が完全に分断されている。誰が正しくて誰が間違っているという話じゃなくて、みんながひとつになれる合意点が失われてしまった気がする。アルバム・ジャケットも、そういう分断された世界の象徴として選んだんだ。アートの解釈は人によって違うからどう捉えてくれても構わないし、必ずしも“レインボー・フラッグが燃えている”図だとは限らない。僕の解釈では、この虹は不可侵の美の象徴なんだよ。北欧神話では虹の橋を渡った先にヴァルハラ(※主神オーディンの居城であり、天国に相当する)があってね。何とかして虹に近付いて触れようと試みるんだけど、決して触れることはできない。そんな虹を燃やす――つまり、不可侵なものを破壊するというのは、本当に強烈なイメージだと僕は思うな。