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警官と市民の間に根深い不信が横たわるアメリカ社会の絶望

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ニューズウィーク日本版

<人生に嫌気がさした人々>

この小説のタイトルである『Long Bright River』は、ビクトリア朝時代の有名な詩人アルフレッド・テニスン男爵の『The Lotus-eaters』に出てくる一節だ。それは、さらにはギリシャ神話の『オデュッセイア』から来たものだ。 英雄オデュッセウスが船である場所に立ち寄ったときに、そこの住民から蓮の実を差し出される。オデュッセウス以外の船員は甘くて夢見心地になれる蓮の実を食べて、もう故郷に戻りたいと思わなくなる。船員たちは、労働と落胆ばかりの人生なんてもう嫌になってしまい、甘美に浸ったまま死ぬほうがいいと言う。ドラッグのオーバードーズで死にかけていたところを救われたのに恨みを抱く妹のKaceyや彼女の友人たちは、さしずめ蓮の実を食べた船員たちということだろう。 だが、蓮の実を食べた者を非難する小説でもない。最初のうちは女性警官が活躍するミステリーのようだが、そうでもない。謎解きもあるし、心理スリラー的要素もあるのだが、根本的には現代アメリカの社会問題と絶望を描いた文芸小説だ。 読んでいるときに、「このストイックな切なさは、ハードボイルドそのものだ」と思った。21世紀のハードボイルドの主人公は、暗い酒場でバーボンを飲む孤独な男ではない。蓮の実を食べることを選んだ人と、市民を守る代わりに利用する汚れた警官たちに囲まれても正気を保ってまっとうに生きようとする30代のシングルマザーのMickeyだ。だが、今のアメリカで正気を保つのは、そう簡単なことではない。 ネタバレになるのでここでは明かさないが、Mickeyや警察でのかつての相棒である黒人男性の最終的な選択に出会ったとき、読者はこれがよくある「警察小説」でないことを悟る。そして、現在アメリカで起こっている暴動の複雑さを少し理解できるようになるのではないだろうか。

渡辺由佳里(在米エッセイスト)

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