【織田信長の令和の新発見】武田信玄は実は信長を頼りにしていた⁉ 信玄が信長に宛てた書状とは⁉
[織田信長の令和の新発見(1)] ■上杉謙信と同盟関係にある信長が武田信玄に協力を約束した⁉ これまでとは変わる「甲尾同盟」の意義⁉ 武田信玄から信長に宛てられた書状がある。書状のため年号の記載はないが、内容から元亀元年(1570)に比定される。文中で信玄は、「越・甲」が「鉾楯」に及ぶ、すなわち越後上杉氏と甲斐武田氏が戦争になった場合、信長が信玄に味方する旨を伝えたことを謝している。 信長が、信玄と同盟したのは、永禄8年(1565)のことだった。『甲陽軍鑑』によれば、同盟の締結を求めたのが信長であったことから、信玄との対立を避けたい信長が同盟を利用したとみられてきた。しかし、この書状により、信玄もまた信長を頼りにしていたことがわかる。甲尾同盟の意義について、今後、より理解が深まるだろう。 [織田信長の令和の新発見(2)] ■本能寺後、安土城は意図的に壊されていた⁉ 安土城の破城跡 安土城の廃城となった過程がわかる発見か⁉ 織田信長が居城としていた安土城は、本能寺の変後の清洲会議で、家督を継承することとなった信長の嫡孫にあたる三法師が城主となった。しかし、その後、織田家中の権力争いを制した秀吉が、天正13年(1585)、城と城下町を近隣の八幡山城に移し、安土城は廃城となった。 安土城では、長きにわたり発掘調査が進められてきたが、最近では、崩落した石垣に意図的な破壊の痕跡が見つかっている。要所の石垣が破壊されていれば、その後の再建は難しい。 破壊を指示したのが誰なのかは、記録からはたどれない。破壊の痕跡は、本能寺の変後における廃城の過程を明らかにする一助になることだろう。 監修・文/小和田泰経 歴史人2024年12月号『織田信長と本能寺の変』より
歴史人編集部