Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

五輪の精神受け継ぎ、東京での開催実現願う マラソン銀メダリストの君原健二さん #8月のメッセージ

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
47NEWS

 今夏開催される予定だった東京五輪・パラリンピックは新型コロナウイルスの影響で来年に延期された。1968年メキシコ五輪のマラソンで銀メダルを獲得した君原健二さん(79)は聖火リレーで福島県内を走る予定だった。幼い頃に終戦を迎えた君原さんに「平和の祭典」にかける思いを聞いた。(共同通信=徳永太郎)  ―戦時中の記憶は。  私が生まれた福岡県小倉市(現北九州市)では戦時中、米軍の空襲がありました。幼い頃だったので、小倉の実家にいたのか父の田舎の愛媛県に疎開していたのか、はっきり覚えていません。長崎への原爆投下前日の1945年8月8日には、隣の八幡市(同)にも大きな空襲があったと聞きました。  ―陸上は戦後始めた。  陸上を始めたのは中学2年の時です。運動会でも1等賞にも2等賞にもなったことがなく、走ることに興味はありませんでしたが、クラスメートから「駅伝クラブに入らないか」と誘われ、断れませんでした。その頃、勉強もスポーツも劣等生で、夢や希望を持てませんでした。だけど「少しでも恥を小さくしたい」という気持ちが、走る動機につながりました。

 ―戦後、戦争の名残はあったか。  小倉には米軍が駐留していたのは覚えていますが、他にはあまり記憶はありません。中学か高校の頃だったと思いますが、米軍は当初、原爆の投下目標に小倉を選んだものの、視界不良で長崎に投下したと知りました。県立戸畑中央高(現ひびき高)時代、1人で陸上の練習をすることが多く、無意味や無駄に感じることもありました。そんな時「原爆が落ちていたら自分は死んでいた」と考え、練習に励んだことが何度かありました。  ―高校を卒業し、実業団に入った。  私は高校で顕著な成績は残せませんでした。どこでもいいから就職したいと思っていた卒業直前、陸上では国内屈指の強豪、八幡製鉄(現日本製鉄)が駅伝大会に出場するためのメンバーが足りず、急きょ、私が採用されることに決まりました。強いチームの一員になり、故高橋進(たかはし・すすむ)コーチ(2001年死去)に巡り合いました。「強くならないといけない」という責任感が生まれ、小さな努力を惜しむことなく取り組みました。

【関連記事】

最終更新:
47NEWS