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球団通算3000勝達成の西武。1勝目をつかむまで苦闘が続いた1979年

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 9月23日の日本ハム戦(メットライフ)に6対5で勝利し、所沢移転後、球団名が西武となって以来、通算3000勝に到達した。しかし、西武1年目の1979年、初勝利をつかむまでは苦闘が続いた。  試合前、松崎しげるの歌う球団歌『地平を駈ける獅子を見た』が大音響で繰り返し流れた。1979年4月14日、快晴の狭山丘陵。2万8000人が詰めかけた真新しい球場は、華やいだ雰囲気に包まれていた。  福岡から所沢に本拠地を移し、「西武ライオンズ」となった初年度。堤義明オーナーが50億円をかけた西武球場の初試合だ。根本陸夫監督は、堤オーナーをはじめ、関係者の前で自信たっぷりの笑顔を見せていたが、顔見知りの記者だけになると、「今日は勝たんとな」と渋い顔でポツリ。開幕以来5連敗、しかも前の阪急戦(12日)は0対11の大敗だ。表情がさえないのも無理はない。  13時54分、試合開始。先発のルーキー、森繁和は5回までに失点は5。しかし、守備の乱れで自責点ゼロ。極めつけは5回表の守備だった。一死二、三塁で日本ハムの柏原純一が二ゴロ。これで三塁走者を挟殺したまでは良かったが、飛び出した二塁走者を見た捕手・奥宮種男の送球が大きく逸れ、打者走者まで生還となった。結局、1対7の大敗。失策は7を数えた。  豊富な資金力を背景に、文字どおり選手をかき集めた。阪神から田淵幸一、ロッテから山崎裕之、野村克也。助っ人のマルーフ、ミューサー、さらに土井正博を合わせ根本監督は「200発打線」と呼んだ。投手陣も阪神から古沢憲司、ドラフトで森、ドラフト外で松沼博久、松沼雅之の兄弟投手と即戦力を獲得。「寄せ集め」の声もあったが、「優勝はまだ先。今年は暴れまわるだけ。それだけの選手はそろった」と根本監督は胸を張った。  ミソをつけたのは53日間に及んで行った米国キャンプだった。帰国が開幕4日前。当然、国内のチーム相手の試合はできなかった。根本監督の方針で打撃投手の同行もなく、バッターは打ち込みができず、練習試合もアメリカのストライクゾーン。いくらなんでも、無謀としか言いようがない。  本拠地開幕で6となった連敗はさらに続き、2引き分けを挟み、プロ野球ワーストタイの開幕12連敗まで伸びた。4月24日の南海戦で4対2とようやく「初勝利」を飾ったが、勝ち星のなかった2分けを挟む14試合中は、合計25失策。投手陣は格好がついてきたが、200発打線も山崎がキャンプで負傷、田淵が大スランプ、助っ人2人も4月29日のミューサーの二塁打が初の長打とさっぱり……。  6月25日、ロッテ相手の前期最終戦に田淵が代打逆転満塁本塁打を放ち、勝利。勝率.310と73年.297という近鉄の2シーズン制最低記録の更新は免れた。それでも、後期は5位。しかも9月から閉幕までなら16勝12敗3分けと勝ち越している。たくさんの屈辱と、ほんの少しだけの手応えもつかんだ「西武元年」だった。 写真=BBM

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