【中村憲剛×小林有吾対談 後編】漫画でもサッカーでもどんな分野でも、一つ結果が出ても満足することなく継続して自分を伸ばしていくしかない
大人気サッカー漫画『アオアシ』の作者、小林有吾さんとの対談は後編に突入します。小林さんに負けない中村憲剛さんの“取材力”で漫画家を目指す経緯が語られていきます。『アオアシ』の海外進出や、今も故郷の愛媛に拠点を置き、多忙な仕事のかたわら地元クラブである愛媛FCに愛情を注ぐ理由やJリーグへの熱い想いなど、話はどんどん膨らんでいきます。 【写真】24歳で漫画家を志した『アオアシ』作者の小林有吾さん
漫画家になると決めてからの人生は全部楽しい
中村憲剛(以下、中村) 読者の方も関心があると思うのでぜひ聞かせてください。先生はいつから漫画が好きで、いつ漫画家を目指そうと思ったのですか? 小林有吾(以下、小林) 4、5歳のときにチラシの裏にコマを割って漫画を描いていた写真が残っているんです。4歳上の姉が4コマ漫画を描いていて、その影響が強かったですね。もし(姉が)いなかったら、チャレンジしなかったんじゃないですかね。姉が目の前で描いてくれるわけなので、見よう見まねでやって。それが大きかったかなと。 中村 お姉さんがいなかったら「漫画家・小林有吾」は誕生しなかったのかもしれないってすごい話。読むのも好きでした? 小林 大好きでした。おばあちゃんが『週刊少年ジャンプ』を買い与えてくれて、ボロボロになるまで読んでいました。挙句の果てに、その作品の中に入りたいと思って、たとえば『ドラゴンボール』に自分が考えたキャラクターを付け足して描いていましたよ。勝手に鳥山明先生とコラボして、悟空と同じ強さに設定して、セリフもつけて、みたいな。 中村 僕も漫画大好き人間ですが、自分で横に描き入れる発想はありませんでした(笑)。普通はなかなかそこまでやらないですよね(笑)。 小林 『聖闘士星矢』や『ハイスクール!奇面組』……全部好きでしたね。 中村 同時に漫画家になろうという気持ちも芽生えていくんですか? 小林 なりたいなっていう気持ちはずっとありました。でも漫画家にどうやってなれるのかが分からなくて。普通に大学を卒業して、普通に就職したんですけど、ずっとゾワゾワしていたんですよ。 中村 ゾワゾワっていう表現、なんとなく伝わってきます。 小林 24歳のときに、「このままで人生終わるのか、何のために生きているんだ」って急にスイッチが入りました。実家に住ませてもらって、母親がつくるメシを食べるだけで、俺、何をやっているんだろうって。そこから仕事を辞めて、バイトをしながら投稿していく生活に変わりました。ずっと自分の中にあったゾワゾワと寒気がするような感覚を、この時、押し出せた感じがありました。 中村 スイッチが入るって、まさに『アオアシ』の世界ですね。誰かにゾワゾワさせられたんじゃなくて、自分自身がそうさせたんですね。 小林 そこまでの人生が楽しくなさすぎましたから。だからこそ、そこからの人生、ずっと楽しいです(笑)。漫画を通じて努力することの喜びを覚えました。 中村 やりたいことがあっても、本気でやらないまま大人になった人たちは割といると思うんです。でも先生のように24歳でスイッチがパーンと入るっていう実体験は、そういう人たちにメチャクチャ勇気を与えるような気がします。 小林 でもオススメはしないです。自分自身でも、もっと早く動いていたらって思いますし。僕がこうだったから、まだ自分も大丈夫だ、のんびりしていいでしょ、とはならないほうがいいとは思うので。 中村 どうしても『アオアシ』にかぶせてしまいますけど、指導者の福田達也が(主人公の)青井葦人を導いた構成は、先生の深層心理なんじゃないかって思うんです。あの出会いのシーンから上京するまでの描写がやけに生々しく感じて。夢を持つ少年を描くときに、自分もそういう人がいたら良かったなっていう先生のちょっとした願望のような。先生の話を聞きながら思っちゃいました。 小林 そうですね、葦人は福田と出会ってなかったら、きっと高校でサッカーは終わっているはず。どの指導者にいつ巡り合うかっていうのはすごく大事で、福田と会う葦人は強烈な運を持っていました。憲剛さんが僕の話をしてくれましたけど、漫画家でいえば指導者は編集者になります。その意味で言うと24歳で漫画家になるというスイッチが入って、最初に出会った講談社の編集者の方は僕にとってすごく大きかった。ネームの書き方とかイチから教えていただきましたから。導いてくれる人との出会いが大事なんだなってことは実感しましたし、もちろんそれは漫画にも表れていると思います。 中村 実際にそういった経験があったんですね。福田をその編集者の方に、葦人を先生に置き換えると、ちょっと今ゾクっとしました(笑)。 小林 憲剛さんにはそういう方がいらっしゃいました? 中村 川崎フロンターレに入るきっかけとなったのも、川崎フロンターレとつながりのある中央大学サッカー部のOBの方が、僕が4年生になるタイミングでコーチに就任して、その方と春先に進路面談をしたところからなんです。そこで、もしJリーグでプレーしたいっていう意思を自分が伝えていなかったら、絶対にプロになれていないと思うんです。もちろんフロンターレに入ってからも日本代表でプレーするようになってからも、監督しかり、チームメイトしかり、自分を高みに導いてくれる存在が必ずいました。僕も葦人のような強烈な運があったということ。でもそれって、何とかしなきゃいけないっていう、何か鬼気迫るものが自分にあったからこそ、導いてくれる人が何とかしてあげようって思ってくれたんじゃないかなとも感じるんです。 小林 そういう出会いって紙一重ですよね。 中村 はい。僕も学生時代に怠惰な生活している間はそういう出会いもなかった。やりたいことを見つけて、努力を積み重ねていくことで、その紙一重の運を呼び寄せられたのかもしれないですね。 小林 その気持ち、よくわかります。
【関連記事】
- 【前編を読む】真っ白な紙にゼロから作る作品が感動を与え人生をも変えてしまう。『アオアシ』を通じて漫画の力を改めて強く感じた【中村憲剛×小林有吾対談】
- 【中村憲剛×佐伯夕利子】スペイン・ビジャレアルの育成法から学ぶ「Doing」と「Being」の大きな違い
- 【中村憲剛×佐伯夕利子】日本サッカーの将来のため、中村憲剛には海外に出て、いいところもダメなところも見てほしい
- 【写真あり】日韓W杯から20年。森岡隆三、宮本恒靖、中田浩二が今明かす熱狂の裏側
- 【W杯大健闘!】川崎フロンターレの育成哲学「ボールを扱う技術」「誠実な指導」が板倉、三笘、田中、久保を生んだ!<日本代表に“川崎”出身が5人もいるのはなぜか?>