狭い壕、頭上には爆音…ハンセン病患者たちが見た「沖縄戦の始まり」10・10空襲 沖縄愛楽園入所の女性(94)が初証言
1944年10月10日、沖縄本島や周辺離島、先島、奄美など南西諸島全域が米軍による無差別攻撃を受けた「10・10空襲」から10日で80年になった。 【写真特集】沖縄戦の始まり、那覇が燃え尽きた日
延べ1396機の米軍機が長時間にわたって爆弾や焼夷(しょうい)弾などを投下した。日本軍資料などによると民間人を含め少なくとも668人が死亡し、海上でも多くの犠牲者が出た。「沖縄戦の始まり」とされる10・10空襲で、県民は戦争の恐ろしさを目の当たりにした。 名護市済井出の国立ハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」も10・10空襲で建物の約9割が焼失・破損した。当時14歳で空襲を体験した入所者の女性(94)が琉球新報の取材に応じ、体が不自由な入所者もいる中、施設への攻撃が7時間に及んだ状況を振り返り「ブロック塀が倒れ、家もなくなって大変だった」と証言した。女性が報道機関に証言するのは初めて。 愛楽園への攻撃は午前8時過ぎから始まり、機銃掃射や爆弾の投下は約7時間続いた。整然と並んだ病棟を米軍は兵舎と間違えたとみられる。実際、米軍が空襲の際に使用した地図に、愛楽園は「BARRACKS(兵舎)」と表記されている。
同園交流会館の鈴木陽子学芸員によると、米軍は屋我地島にハンセン病の治療施設があることは知っていたが、詳細な場所は分かっていなかったという。米軍の空襲は4回に渡った。 当時の入所者約900人は園内53カ所に掘られた壕に避難した。女性は園内の中央付近にあった「三上壕」へ逃げたという。女性は「爆音が聞こえ先生と一緒に逃げたと思う。壕は狭かった。20人くらいが一緒に避難したのではないか」と振り返った。壕内では「おなかがすいたとしか考えていなかった」。避難した全員が無事だったが、女性は「ブロック塀が倒れ、家もなくなって大変だった」と語った。 (玉寄光太)
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