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2歳で被爆体験「泣きながら、はだしで走った」 広島で見たキノコ雲、今でも記憶鮮明

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福井新聞ONLINE

 広島に原爆が投下された1945年8月6日、福井県坂井市の上野肇さん(77)は2歳。「小さくて覚えているはずもないのに、その時のことは覚えている」。爆発が起きた瞬間の記憶は、今でも鮮明だという。75年がたち福井県内にいる被爆者も少なくなる中、「原爆や戦争の記憶を風化させないで」と呼び掛ける。 × × ×  当時、私は厳島の西側の対岸に位置する広島県廿日市市大野で両親と姉、祖母の5人で暮らしていた。  その日は晴れていたが、そこまで暑い日じゃなかった。姉と祖母が近所の神社裏にある広場へ遊びに連れて行ってくれた。ブランコがあるだけの広場だった。  しばらく遊んでいると突然「ドーン」とおなかに響く音がした。低くて鈍い大きな音だった。爆心地から20キロほど離れてはいたが、地面は隆起し、体が飛び上がるほど揺れ、民家の窓ガラスはバリバリと音を立てながら割れた。  山の向こうに目をやると、真っ黒いキノコ雲が上がっていた。恐怖から履いていたげたを手に持ち、泣きながらはだしで走った。幅2メートルほどの道を全速力で駆け抜け、家に帰った。記憶があるのはここまでだ。  戦争が終わり、小学1年か2年のある日、木造の校舎や体育館の天井が薄茶色のまだら模様になっていることに気付いた。先生に理由を聞くと「床の板と天井の板を入れ替えたから」。当時は被爆した人たちを収容する場所がなかったため各地の学校へ運んだ。まだら模様はその時に付いた血の跡だった。天井なら目立たないという理由だった。  小学校の遠足で、平和記念公園に行った。原爆資料館の展示を見た時は、あまりに悲惨で昼食を食べることができなかった。  高校生の頃に被爆者手帳をもらい、公民館で健康診断を受けるようになった。当時、広島駅近くにある山の上に日米合同の原爆に関する研究所があった。健康診断の結果はそこへ送られるらしく、診断に来た高齢者は「わしらはアメリカの研究道具じゃ」と自分たちのことを卑下していた。  仕事の関係で福井に引っ越したのは1985年。広島にいた頃から半年に1回、被爆者を対象にした健康診断を受けている。越してきた頃、坂井市には27人の被爆者がいたという。以前は同市の健康診断に行くと、毎回10人以上が受診していた。中には「放射能がうつる」と言われた経験からずっと被爆者であることを隠している人もいた。  今年3月の健康診断は、3人しか受診者がいなかった。高齢化が進み当時のことを語れる人は減っている。昔、広島には100年草木が生えないと言われていた。しかし若い世代にとっては、原爆ドームがある所という程度の認識の人がほとんどだろう。  被爆者はあの日をずっと覚えているが、経験していない人は日に日に忘れていく。被爆者のつらさはどれだけ話しても分からないことがあるだろうし、自分からはなかなか原爆の話はしない。それでも戦争を知らない現代の人には、原爆や戦争の記憶を風化させず、平和について考えてほしい。この思いは戦争の時代を生きた人皆同じだろう。

福井新聞社

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