「飯舘村」が目指している意外な村の在り方
2011年、震災で福島第一原子力発電所事故が起きた際、東京で引退生活を送っていたが、研究者仲間とネットで連絡を取り合い、被災地へ向かう。以後、福島県飯舘村へ放射線測定や除染に通い、2017年4月、避難指示が解除されると村へ移住した。『飯館村からの挑戦――自然との共生をめざして』を書いた認定NPO法人「ふくしま再生の会」の田尾陽一理事長に最近の活動などについて聞いた。 ■事故現場に対処するのにデータがこない
──事故2週間後に向かった茨城県東海村は混乱のさなかでした。 物理学をやっていた身として、何が起きているのか純粋に知りたい気持ちでした。僕自身4歳の時に広島市の隣村で原爆を見ているから、放射線には因縁があります。 東海村の日本原子力研究開発機構は建物が壊れ真っ暗だった。何も手が付けられてない状態で、事故現場に対処するのにデータが東京電力から送られてこない、と。原子力村の中枢に情報がないという、驚くべき事態です。翌日、高校の先輩で親しくしていた与謝野馨さん(当時大臣)の事務所へ飛んでいった。すぐ各方面へ指令が飛び、やっと回り出しました。
──各地を回り、原発から30キロメートルの飯舘村に拠点を置かれたのは? 初めて飯舘村へ入った日、専業農家の菅野宗夫さん(現ふくしま再生の会副理事長)と出会ったのが大きかった。息子さん一家は村外に避難して、じいさんと奥さんと3人、6月には牛を処分し自分たちも避難するということだったけど、「あなた方が来るなら、その時間に私も戻って付き合うよ」と言ってくれた。田んぼ、山林、牧場、どこからどう着手するか等々、問題は山積み。でも一緒にやろうという村民がいるんだから、やっちゃおうという感じで。
──放射線測定や除染では、独自のやり方を次々編み出しました。 つてを使って省庁に探りを入れても、彼らもどうしていいかわからなくて止まってた。いつまで避難が続くかわからないけど、この土地は捨てないって村の人は言う。僕らはこの地に合ったやり方を自分たちで調べながらやっていくしかない。農学部もいれば都市工学、環境デザインやってるやつ、物理学もいる。みんなで知恵出し合って「こんなのどうだ?」「よし実験しよう」なんてやっていたわけです。