「二流扱いだった日本車」そのイメージをくつがえし米国で愛された和製スポーツカー。初期モデルは今や数千万円…【名車探訪Vol.13】
1960年代、国内自動車メーカーは対米を中心に輸出を開始していたが、日本車はまだ世界では二流のクルマという扱いだった。営業畑一筋から米国に渡り、北米日産の初代社長となった片山は、当時1万ドル以上と高嶺の花だったスポーツカーなら、そんな日本車の評価を一変できると考えた。ポルシェと遜色ない性能を備え、価格はその半値以下(約3600ドル)で「240Z」が1969年にデビュー。1978年までの10年間で国内外総販売台数は約55万台(うち国内は8万台)。世界で最も売れたスポーツカーとなった。 【画像】「マジでカッケぇ…」日産 フェアレディZの歴代モデルの写真とスペック
情熱と創意工夫で一歩一歩進化していった日産のスポーツカー開発
スポーツカーは、自動車メーカーにとっては悩ましい商品だ。自社のブランドイメージを向上させる看板としては魅力的だが、儲けにはならない。高度な技術を投入すれば当然コストがかかる一方で、どう頑張っても実用車ほどには売れないのが目に見えているのだ。フェラーリやポルシェのようなブランド力のある専業メーカーの少量生産車なら高い値付けでも売れるが、薄利多売がビジネスモデルの日本の量産メーカーが、苦手とする商品企画なのである。 それをモノにするためには、作り手の情熱や見識に創意工夫、さらに時代の後押しも必要だ。1969年に登場して、主に北米市場で大ヒットとなり、その後の日本車への評価さえ一変させた初代フェアレディZ(S30系)は、それらがすべて揃うことで生まれた、奇跡のような一台だった。日産は、1954年に開催された全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)に、トラックに使われていたフレームに手作りのオープンボディを載せた、戦後初のスポーツカーとなるDC-3を展示。1959年には、ダットサン210型のフレームにFRP製のボディを載せたS211型を発売している。 ただし、当時の自動車産業の儲け頭だったトラックや、ようやく軌道に乗りつつあった乗用車と較べると傍流だ。そもそもS211型は当時、新素材として注目されていたFRPの用途を探るために、大学からの依頼で開発した実験的なプロジェクトだったという。まだまだ性能も品質も稚拙だったが、S211を鋼板ボディ化したS212型を、当時ダットサン210やトラックの輸出が始まったばかりの北米市場に出してみると、少しずつ販売台数を伸ばした。そのころに、ブロードウェイで鑑賞したミュージカル「マイ・フェアレディ」に感銘を受けた川又克二社長によって命名されたのが、フェアレディ(当時はフェアレデーと表記)の名だ。 1962年には初代ブルーバード、310型がベースのSP310型1.5Lとなり、1967年には同じボディにセドリック用の2L4気筒145PSを積んだSR311型フェアレディ2000まで進化した。その跡を継いだフェアレディZが、新型セドリックのエンジンやスカイラインのブレーキ、ローレルのフロントサスなど、既存車種の部品を巧みに組み合わせることで手頃な価格を実現していたのは、ある意味では伝統芸とも言えた。発売当時のベーシックグレードの国内販売価格は93万円。北米市場では3596ドルからで、いずれも破格の安値だったのだ。