“核と人類は共存できない”核兵器廃絶を訴え続け ノーベル平和賞に選ばれた日本被団協の歩み 「核兵器をなくすことは被爆者の課題ではなく人類の課題」
1956年8月6日に結成された日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)。その歩みは、国内外で核兵器廃絶を訴え続けた被爆者の歴史でもあります。 【写真を見る】“核と人類は共存できない”核兵器廃絶を訴え続け ノーベル平和賞に選ばれた日本被団協の歩み 「核兵器をなくすことは被爆者の課題ではなく人類の課題」 「命尊し。人類は生きねばならぬ」。日本被団協の結成に尽力し、反核運動を牽引してきた故・森滝市郎さん。森滝さんの「核と人類は共存できない」という言葉のもと活動を続けてきました。 1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めて人の頭の上に原子爆弾が落とされました。そのわずか3日後の8月9日午前11時2分、長崎市にも原爆が投下されました。街は一瞬にして廃墟となり、生き残った被爆者も原爆症や差別に苦しみました。 しかし、原爆を投下したアメリカは核実験を繰り返していきます。そして、1954年3月1日、南太平洋のマーシャル諸島で水爆実験を実施した。このとき、ビキニ海域にいた「第五福竜丸」が“死の灰”を浴びました。 この事件をきっかけに、原水爆禁止の運動が全国に広がっていきます。 ■被爆者の訴えは海を越えて 原爆投下から10年が経った1955年、第一回原水爆禁止世界大会が広島市で開かれ、被爆者の思いが初めて世界に向けて発信されました。 この翌年、被爆者団体の全国組織日本被団協が結成されました。被爆者の援護と共に、核兵器の廃絶を、国内外へ訴えていきます。 1982年、アメリカ・ニューヨークで開かれた国連軍縮会議でスピーチした、長崎で被爆した山口仙二さんは「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー」と叫びました。 軍拡競争で、各国が核実験を繰り返すたび、広島市の平和公園にある原爆慰霊碑の前で座り込み、抗議活動を行ってきた森滝さん。1993年7月、森滝さんにとって最後の座り込みとなったときには、こう語っていました。 森滝市郎さん(当時92歳) 「核はいっこうに無くならない。じゃ絶望するかというと、絶望するわけにもいかない。核がある限り、我々の運動というものはどうしても続けられなければいけない」
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